能力弱者





かつては空想の産物だった、コンピュータ社会、ネットワーク社会が現実のモノとなると共に、「情報弱者」にどう対処するかという問題の重要性を主張する人が多くなった。社会的良識を代表していると自負しているような有識者や知識人、大マスコミに、こういう論陣を張る人が目に付く。しかしぼくに言わせれば、その論点は見当外れも甚だしい。情報弱者なんていない。いるのはそもそも情報ニーズのないヒトだけだ。生きてゆくのに情報がいらなければ、そもそも情報機器を使う必要性もない。そのヒトは情報機器など使えなくたって何も問題ない。

実態調査がそれを如実に示している。毎日新聞の発表している「読書世論調査」によれば、単行本でも文庫でも、一カ月一冊以下しか読まない人が16才以上の個人全体の60%に達する。週刊誌でも50%が一冊以下だ。郵政省の調査によれば、一通も手紙を利用していない世帯が、封書で約4割、ハガキで約3割に達する。電話でも、業務用や携帯も含めたすべての電話の平均発信回数は一日1.7回だ。能動的な情報メディアの利用は、こんなモノだ。手紙も電話もかけない、コミュニケーションニーズがそもそもないヒトが世の中にはいっぱいいる。そんな彼らが、e-mailを出すはずがない。

そういうヒトには、パソコンの操作やインターネットのつなぎ方を知りたいモチベーションなどありえない。情報機器を扱うテクニックなど、ニーズや必然性があれば簡単にマスターできる。確かに何も努力がいらないとはいわない。しかし、楽器をマスターしたり、外国語をマスターしたりする努力に比べれば、そんなもの屁でもない。箸を使ったことがないヒトが、その操作をマスターする程度のことだろう。パソコンの使いかたがわからない、覚えられないというのは、パソコンを使うニーズや必然性がないからに過ぎない。

さて、実は情報化で問題になる弱者がいる。それは「能力弱者」の問題だ。情報化が進むと、三つの面で変化が起こる。一つにはそのヒトの実力を示す「実績」が、すぐに手に入り比較可能なこと。過去言ってたことと、今言ってることが矛盾するなんてのもすぐわかる。次には、どれだけディスクロージャーしているかがすぐわかること。いろいろ隠している人は、オープンにしている人より信用されない。最後には、コンピュータでも出来ること、という一つの基準が明確になること。検索すればすぐわかるような知識がいくらあっても、何の価値もない。

こういう変化がもたらすもの。それは、そのヒトのその分野での実力が、誰の目にも明白なものとなってしまうことだ。いままでイバっていたり、偉そうに振舞っていた人も、裸の王様になってごまかせなくなる。いままで隠れていた才能が開花するということも、事例としては少ないが起こり得る。もちろん、どんな分野でもトップレベルでは常に競争が行われている以上、このような変化がその地位を失うことにつながったり、新たな競争者との交代をもたらすこともあるだろう。

しかし変化として重要なのは、どういう立場の人間であってもそのヒトがその領域で持っている能力がどのレベルかということが、赤裸々にわかるようになることの。世の中には、その分野に関して全く能力を持ち合わせていない人もいる。そういうヒトには、その領域での一人前の権利は悪いけどあげられない。いわゆる赤点、「不可」ということだ。これからは、誰がそういう能力弱者なのか、各分野ごとに明確になる。こういう変化に対してどういうスタンスを取るか。明確なビジョンを持っていないと、これはとんでもないことになりかねない。

文章を書くのがうまい人は、ワープロソフトを使いこなすことで、さらに推敲を重ねることも楽にできるし、そもそも文章を書く生産性がぐんと上がる。技術の進歩により、ますますいい文章がかけるというモノ。しかし、それはもともと文才があるからなせるワザ。文才のないヒトは、いかに高性能のワープロソフトを使っても、ろくな文章が書けないのはいうまでもない。ダメなものはダメ。どうやっても救いようがないし、ゴマかしようもない。これはぼくが20年ぐらい前からことあるごとに言ってきたことだが、これがやっとリアリティーのある問題になってきたということもできるだろう。

能力がないのに、ある種の権威にスガってアイデンティティーを発揮していたひとは、その化けの皮が剥げる。いわゆる「良識」が意味を持たないのだ。すでにWebなんてその典型だ。どういうWebが面白くて、読者を集めているかを見てみれば一目でわかる。ステータスのあるなしと、能力のあるなしは違う軸だってことがはっきりしている。無冠でも能力のあるヒトの書いた文章は面白いし、説得力がある。正当性だってある。一方、能力がないのに社会的な権威にすがっていた人が書いた文章では、誰も説得されない。

かつては学識経験者でもジャーナリストでも、良識派とか知識人とか称して偉ぶっている人がいた。だが、それは朝日新聞とか、文芸春秋とかいう権威で読ませているだけだった。その構図が明確になるのが情報化社会だ。これからの時代、そのやり方では誰も読んでくれないのだ。そういう意味では皮肉だが、そういう社会の権威ある人たちが、あたかも能力弱者の問題から視点をそらせるがごとくに、情報弱者の問題を喧伝しているというのも、まんざら理由がないことではあるまい。

おまけに、単にそれぞれの分野で、能力の優劣がはっきりつくようになるだけでない。コンピュータで処理できることとできないことという、質的な格差も生まれるのだ。形式化された情報を扱うことについては、人間はもはやコンピュータにはかなわない。だから知識だけで知恵のないヒトは、コンピュータ以下の能力という烙印をはっきり押されるようになる。それでは喰ってはいけない。段ボールならぬ古本を積み重ねた「家」に住む、知識だけは余るほどあるホームレスが新宿西口にあふれるかもしれない。そうなる前に、次の喰いっぷちを探すべく、早く御引退願うしかないだろう。

大事なのは、自分が比較劣位にあるその能力で勝負すべきではないことを、きちんと自覚することだ。音痴でも野球が天才的なら、それで生きる道はある。要は自分が天才的になれる分野だけに努力を集中すればいいということ。趣味が多様化・細分化する分、誰でも世界一、人類一になれる可能性のある分野は増える。プログラムでも、ディスプレイ・ドライバの天才、みたいな域に達すれば、それだけで充分家が建つ。まあ、中にはすべての分野で能力弱者という人も、確率的にはいるかもしれないが、それはあくまでも例外。どんな状況でも確率的例外は存在するのだから、それはあきらめてもらうしかないが。

そのカギは、自分の中にきっちりと価値基準を持てるかどうかだ。ヒトがどう見るかではなく、自分がどうしたいか、どう思うか。これからはヒトのマネをしてもはじまらない。自分らしいところを伸ばすしかない。そのためには人がどう思おうと、自分の道を行く勇気と信念が必要になる。これに忠実でいられれば、自分しか持っていない能力を発見し伸ばすことができる。一言でいえば、「創造型オタクになれ」ということ。これが情報化時代に能力弱者にならない、唯一そして最大の道だ。

(00/01/21)

(c)2000 FUJII Yoshihiko


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