情報社会のマーケティング





産業社会におけるマーケティングと情報社会におけるマーケティングは根本的にその構造が異なる。それは別に巷間語られているように、ビッグデータやファクトログの処理の問題ではない。マーケティングが顧客の意識や行動を潜在的なものも含めて把握し、それにあわせてマーケットインを実現するものである以上、情報の把握が決定的に容易になる情報社会においては、意識や行動を把握するプロセスが根本的に異なるからだ。

情報社会である21世紀のマーケティングにおいては、無垢の目で先入観なくマーケットのありのままの姿を見つめることができるかどうかがカギになる。もちろん、20世紀の産業社会においてもそのような視点は重要であり、必要とされていた。しかし、ユーザニーズの完璧な把握が不可能であった以上、現実に顕在化されているニーズを捉まえるだけでも大変で、ある意味後追い的に調査等でそれを把握することにもそれなりに意味があった。

無垢の目で先入観なくマーケットのありのままの姿を見つめるとはどういうことか。言い換えれば、それはマーケットの中で右往左往する群衆の一人としてではなく、あたかもドローンからの空撮のような三次元の鳥の目を持ってマーケットの状況を見つめられるかどうかだ。情報社会だからこそ、好むと好まざるとに関わらずあらゆる情報が自分の元に飛び込んでくる。その中で的確な判断ができるためには、なによりマーケットの全貌がつかめていることが必要となる。

それは「客観的」といってもいいだろう。産業社会においては、自分の欲しいモノを、自分の近くにいる「同類」の顧客に販売するだけでもビジネスは成り立った。サブカル・アングラ的なロングテールである。しかし、情報社会は自分の目には見えていない潜在顧客を掘り起こし、大きな需要を生み出してしまう可能性を秘めている。この需要の変化に対応できないと、テレビで紹介されたとたんに行列店になり常連さんが離れてしまうラーメン屋のように、自らの商売の機番が揺らいでしまうことになる。

マーケットの全貌を客観的に把握できているのなら、その先にあるチャンスもリスクも見えてくる。そうすれば、おのずと「次の一手」も閃いてくる。マーケティングの戦略とは、「考えてひねり出す」ものではなく、「自然に湧いてくる」ものである。その鍵こそ、マーケットを立体的に俯瞰して全貌を掴むことだし、それができればおのずとそこに道が見えてくる。全貌を見てもアイディアが湧いてこない人は、そもそもマーケッターには向かない。

市場においては、ゲームチェンジャーとなりプライスリーダーのポジションを獲得することがなにより重要である。これを成し遂げるためには、今までにないユニークな商品やサービスを提供することが求められる。このためには生活者の潜在的なニーズを先取りする発想が求められるが、これは「無から湧き出る」ことによってしか得られない。既存の知識から演繹的に思考しても、そこからはヒットする商品やサービスは生まれてこない。せいぜい二番煎じのパクり商品をいかに安く作ってシェアを確保するかという戦術だ。

アナログでしか「もの作り」ができなかった産業社会においては、ポーターが「競争の戦略」で述べたように、レッドオーシャンの競争市場の中で戦うしかなく、その戦術は、高付加価値による差別化戦略か、低価格による価格戦略か、どちらかでNo1になるしかなく、それ以外は死屍類類という熾烈なマーケットだった。こういう環境下においては、演繹的思考で低価格を実現して生き残りを図る手法も充分罷り通った。

しかし時代は21世紀、情報社会へと移行した。情報社会においては、ポーター的な競争戦略は通用しない。いや、通用することは通用するのだが、あまりに無駄にリソースを消費するだけなのでお勧めできないというのが正確な言い方だろう。チャンのブルーオーシャン戦略のように、同じことをやっても敵がいない自分の土俵を作ってしまうやり方こそが、情報社会らしいマーケティングの基本だ。そのカギとなるのが、一ひねりしたユニークな発想である。

受け手の生活者にとって同じ結果やメリットを、違うモデルで提供するのがディジタル時代の黄金律だ。それはそれまでの価値基準では、必ずしも最適解ではないプロセスかもしれない。しかし、それでブルーオーシャン市場が生み出せるなら、「勝てば官軍」である。そして、コンピュータ対人間の将棋と同じように、最適解ではなくAIで生み出せないものが、本当にユニークな新商品であり、新サービスなのだ。そしてそれを生み出す秘儀こそが、情報社会のマーケティングに求められる役割だ。



(22/08/19)

(c)2022 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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