依存症の宿命





地球上の生物は、地球の5億年の歴史の中、その進化をDNAの中に刻み込んできたからこそ今がある。生命の発生から人類の誕生までの生物の歴史の中で、細菌や単細胞生物のから高等生物まで、驚くべき変化を遂げてきた。それは、次々と引き起こされる環境の変化の中で自然淘汰が繰り返されることにより、適応性の高い種が生き残ってくるという輪廻を繰り返したからこそ成し遂げられた変化である。生物の進化とは、壮大な自然の摂理のドラマでもあるのだ。

ここで重要なのは、進化を成し遂げた裏には必ず進化できなかった種が淘汰されている点である。すなわち進化の歴史は、とりもなおさず淘汰の歴史でもあるのだ。この因果からは、地球上の最終型とも思われる高等生物の人類とて逃れることはできない。あまたの類人猿や原始人の中からホモサピエンスが現生人類として生き残り、現在の繁栄を築くまでの間に、北京原人として知られるホモ・エレクトスのように絶滅し化石でしか見られない多くの種が淘汰されてしまった。

淘汰は、生物である以上人類の上にも常に負い被さるる宿命である。人類とてこの「神の掟」から逃れることはできない。さて、昨今のカルト宗教の事件でもまた着目されているが、人類の業の一つとして「依存症」がある。カルト宗教然り、麻薬然り、ギャンブル然り。何かハマるモノがないと生きてはいけないし、一旦ハマり出すと際限がなくなり限度を越えて死ぬまでハマり続ける。必ずや身を滅ぼす恐ろしい結末が待っている恐ろしい「病」である。

現代社会においては、こういう罠に嵌った人をなんとか救い出すことが本人のためにも、社会のためにもなると信じられている。しかし依存症のポイントは、それが「死に至る病」というところにある。依存症の人間は、神からハマって死ぬことを運命付けられた人だからだ。言い換えれば依存症とは、人類が継続して反映するために問題となる不適合な因子を持った人間が、自ら身を滅ぼすように作られたフェイルセイフの機構だからだ。

したがって、むやみに「救いの手」を差し入れることは危険である。何よりそれは人類のためにはならない。あるものに没入してバランス感覚をなくしてしまう人間は、集団で社会生活を行う生物である人類にとっては厄介な異分子である。であるがゆえに、神の手はこういう個人が自ら身を滅ぼすようにプログラムしたのだ。つまり、生物界のゴーイング・コンサーンのためには、自然淘汰されるべき存在なのである。

本人が没入して身を持ち崩すことを最高の極楽と思っている以上、それを否定することはできない。周りに迷惑をかけることは論外だが、一人で自滅してくれる分には誰も困らないし、人類全体としては極めてハッピーな未来へ繋がることである。ここで大事なのは、依存症の人は依存して没入し廃人化することが至上の幸せである点だ。本人がそれを切望しているし、そこにハマり込むことこそ彼にとっての「至上の極楽」なのだ。

人類がさらに進化し、栄えある未来を手に入れるためには、神の思し召し(信じる宗教によってお釈迦様でも大日如来でもなんでもいいが、「見えざる手」の力で宇宙を司る崇高な存在)の示すままに、それに贖うことなく結果を受け入れる必要がある。依存症の人は、依存しているのが幸せだし、それで身を滅ぼすことによって人類の未来に貢献しているのだ。その姿こそが自然の摂理であり、その行く末を他人が手を加えることなく見守ることこそ、あるべき対応である。

それを無理に「救おう」とすることは、自然淘汰を否定することになる。自然淘汰の否定は、すなわち進化の否定だ。人類が今後進化できないのならば、人類の未来はないことになる。いわば、ごみ収集の日にゴミを出さないでいると、部屋中にゴミがたまってゴミ屋敷になり真っ当な人にはとても住めない場所になってしまうようなものだ。神様は自然にごみ収集日にゴミが出されるような思し召しを与えてくれている。依存症の人にとっても、「正義心」の押し付けはありがた迷惑だろうし。薬物依存症の人は過剰摂取で死ねるのが一番幸せなのだ。



(22/08/26)

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