リア充はリア縁を目指す





インターネットの時代になって、ネット上のあらゆるコンテンツにアクセスランキングが着くようになったため、人気ランキングは参加しやすくしかし熾烈なものとなった。ゴールデンエイジのアメリカンドリームではないが、才能のあるものにとっては一瞬にして栄光の座を勝ち取れるチャンスがあり、それが誰にでも与えられている時代になったということは、情報社会はいい時代になったといえるだろう。但し、勘違いする凡才の悲劇を大量に生み出すことにもなっているのだが。

その一方で、あるレベル以上の才能を持っていて家も太い人は、勝負してもいいが敢えて勝負しないで成功する道が見えてきている。それは、直接その世界の一流の人から評価を受け、シードで登場するチャンスが増えているからだ。審美眼を持っている一流の人は、オーディションで不特定多数から人を選ぶのはまどろっこしい。そういう人は「こいつはイケる」という才能をすぐに見いだせるのだから、そういう人材をみつけて組む方が早いし楽である。

もともと才能のある人材を見つけ出すのは、蛇の道は蛇。不特定多数を集めてその中から選び出すより、ツテを頼ってスゴい人材を見つけ出すほうが余程速かった。オーディションで適材を選び出すよりは、自分の持っている業界内の有為な人材のネットワークにあたって、適材を選び出す方がずっと手間がかからないし、自分の演出にあった人材をみつけやすい。もちろんオーディションの面白さやメリットもあるのだが、効率を考えると演出側からは一本釣りのほうが楽だ。

そもそも能力の高い人間ほど、相手の能力を客観的に判断できる。これは人間社会の掟である。いつも言っているように、マネジメントする側が凡才だと、自分より能力のある人間はただただ「こいつはスゴい」だけでしかとらえられない。どこがどのようにどれだけスゴいのかを客観的に判断できないのだ。これではスゴい人材同士の比較やランキングができない。これでは当然、どの人間をどこで使うのかという適材適所のマネジメントは不可能である。

少なくとも自身の能力が高い人間がマネジメントするなら、自分と同等以下の人材なら極めて客観的かつ定量的に評価することができる。もちろんそういうレベルの高い人材でも自分以上の能力を持った人間を客観評価することはできないのだが、そもそもその人以上の能力をもった人材というのは、すでに2σの外側なのだろうから、それ自体希少な存在である。そういう人々が「とてつもなくスゴい」と認識した時点で、もはや客観的にランキングする必要はない。

だからこそ、能力が高い人なら有為な人材はスグに見抜けるし、そういう人材を見つけたいとばかりにいつも気に留めるようになる。それを相互にやっているのだから、おのずと「ハイレベルの人材」同士のネットワークが出来上がってくる。それはアナログ時代から変わらないし、ある意味原始時代に文明が生まれて以来変わらない構造であろう。「類は友を呼ぶ」といわれるように、優れた人間は優れた人間同士、凡才は凡才同士つるみ合うものなのだ。

従ってそういう人間のネットワークと繋がっていれば、いつでも求める人材をみつけることができる。だが、この方式の最大の問題点は、自分自身がある程度以上ハイレベルの能力を持っていない限り、仲間には入れてもらえないところにある。かつてのエンタテインメント業界ではこの「能力の高い人間のネットワーク」が発達していたため、稀有な人材も発掘することができた。1980年代以降の業界では、こういうネットワークのピボットとなっている人がプロデューサーとして活躍するようになる。

一方才能を持っていて、これから能力を発揮する場を欲しがっている側も、もちろんオーディションやデモ作品によって自分を売り込んでもいいのだが、直接人的に業界のキーマンとコンタクトを取りコネクションを築いてしまった方が、手っ取り早いし成功も早く手に入れることができる。能力の高い人間であれば、大歓迎でハイレベル・ネットワークに迎え入れてもらえるし、それは即成功への足がかりになる。

さてインタラクティブの時代の人気投票には、即戦力ですぐヒットに繋がる(というより、エントリーしたものがヒットしたかどうかでランキングが付く)というメリットがあるものの、極めて先進的・アバンギャルドな作品は世に出にくくなるという問題がある。大衆的評価というのは、良きにつけ悪しきにつけ、そこに特徴があるのだ。それはそれで「人気投票」のメリットでもあるし、アーティストからすればその長所が生きるように利用すればいいだけのことである。

そして、次の時代を先取りする作品は、そのような即大衆的評価には繋がらないが、審美眼のある人には非常にアピールするという特徴がある。但し、金にはなりにくい。その分「ヒットして儲けたい」と思っている人は、どうしても斬新な表現よりは、大衆的なウケを得られるようなわかりやすい表現を選ぶようになる。ネット上では、こういう「ウケのいい」作品は、たちどころにバズって人気を呼ぶ。同時にマネタイズもしやすくなる。

その一方で、才能がありなおかつ家が太くてシャカリキになって金を稼がなくてもいい人は、とんがった作品を創っていれば、それがそれを評価できる人の目に触れるチャンスも大きくなっている。すなわちアーティストとして本当に自分が追求したい表現を極めやすくなっているのだ。今でも「一流どころのネットワーク」は生きているし、優れた作品は必ず着目され、そのネットワークに入れてもらえることになる。実はこれこそが結果的に成功への早道なのは今も何も変わってはいないのだ。



(22/09/02)

(c)2022 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる