サラリーマン元首の悲哀





21世紀の情報社会になり、かつてのようなライン型組織に基づく人海戦術の情報処理を行っていた産業社会の時代とは組織のあり方が変わってきた。ウクライナ戦争で、旧態依然とした指揮命令系統しか持たないロシア軍が、その大戦力を生かせず苦戦していることがその如実な例といえる。ライン型の情報処理は、オンラインのコンピュータシステムとそこにビルトインされたAIに任せればいい。人間に求められるのは、最終的な判断・決断だけである。

では21世紀型組織におけるリーダーシップの本質はどこにあるか。それは肚をくくって責任が取れかどうかにある。自らが全ての責任を負うリーダーだからこそ、その決定に全てを委ねることが可能だし、その戦略や判断に部下が付き従うことになる。かつてのライン型組織のように命令や脅し、功利的な理由で部下をなびかせるのではなく、この人になら付いてゆきたいと思わせることができるかどうかが、リーダーシップのカギとなっている。

このようなリーダーが最も少ないのが日本の大企業である。日本の大企業に多いサラリーマン社長は、そういう「人格」に対する評価ではなく、日本的経営の「年功序列」でトップにまで上がってしまった人も多い。というより、かつて「調整型リーダー」といわれたように、そういう人が大部分である。高度成長期のように経営判断をしなくても、景気の風に身を任せていれば順風満帆だった時代はともかく、不確実性が前提となった情報社会の現代においてはそれではとても通用しない。

サラリーマン社長におけるこのようなリーダーシップの欠如が露呈するのは、企業の不祥事が起こった時である。リーダーとしての自分の責任ということは微塵も考えず、ただただ運が悪かったと他人事としてしか捉えない。挙句の果てには、自分に責任はない、自分は責任を取りたくない、やめりゃいいんだろ、幕引きを狙う。とにかく逃げの一手であるがゆえに、その企業のブランド価値も地に落ち、かつての雪印乳業のようにそのまま倒産してしまった企業も数多い。

このように無責任なサラリーマン社長は、21世紀型の組織においては無用の長物だけでなく、会社を滅ぼすガン細胞のような存在である。そして、組織の長という意味ではこのようなパラダイムシフトは、企業トップだけの問題ではない。選挙で選ばれた元首は、自らの人格をかけた責任を取れないという意味では、サラリーマン社長と同じである。結果的に無責任で、肚をくくった決断ができない。「やめればいい」になってしまう。21世紀においては、リーダーは有限責任ではダメなのだ。

有限責任というのは、株式の上場により多くの資金を集めることが可能になるように、ある目的においては合理的なやり方である。しかし、ことリーダーシップという文脈においては、権限を中途半端なものにしてしまう危険性も高い。平時の経営判断においてはほぼ問題がないが、想定外の事態が起こった「有事」に求められる判断には、有限責任では決断不可能な選択も含まれてしまう。

企業においても、第二の創業といえるような抜本的なリストラクチャリングは、サラリーマン社長には極めて難しい。その一方で、自身がファウンダーだったり、創業家出身だったりするオーナー社長であれば、それをやらなくては自分自身の屋台骨が危うくなるのだから、背に腹は代えられず改革に取り組まざるを得ない。多くの創業家出身者にとっては、なによりも自分の代で家業を絶やしてしまってはご先祖様に合わせる顔がなくなってしまう。

それならば、大統領制のように行政のトップを選んだり、議院内閣制のように議会が行政の責任者を選ぶのではなく、議会の議員の数を極めて少なくする代わり責任を重くし、貴族議会のように議員自体を有限責任ではなくするとともに、議会自体が企業の取締役会のように全ての決定事項を責任を持って決め、スタッフとしての行政にその通りやらせるシステムの方がまだ責任が明確になるかもしれない。

その点、オーナーやファウンダーのように、無限責任が伴う王様の元首とは肝の据わり方が違う。確かに国王でも退任することは不可能ではない。しかし、それは全てを失うことを意味する。米国の大統領が引退後も高額のギャラで世界各国で講演を行ったり、破格の契約金で手記を刊行したりして、悠々自適の隠居生活を送れるのとはわけが違うのだ。リーダーシップにおける責任の取り方という意味では、無限責任に勝るものはない。

しかし誰も好き好んで無限責任を取ろうとは思わない。である以上、無限責任が多くの場合世襲制度と結びつき、生まれながらにして無限責任を背負って逃れられないシステムになっていることもうなづける。21世紀の情報社会においては、人間は責任を取って判断するリーダーシップこそが、その役割となる。有限責任な部分はAIにやらせればいい。そういう社会になっている以上、21世紀こそ世襲が再び重視される時代なのだ。世襲でなくては究極の責任は取れないのだから。



(22/09/09)

(c)2022 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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