ポリコレの問題点





差別やイジメは、すでにここでも何度も分析し論じているが、それが人間の根源的かつ生理的な欲望に根差している以上、根絶することは不可能である。厳罰に処することで、表面的には「事件化」しなくなり、役所的な評価基準である「発生件数」は減るかもしれない。しかしそれでは、人々の心の中に疼く差別したい気持ちやイジメたい気持ちを抹消することはできない。かえってそれらの感情が地下に潜り裏世界化することで、もっと陰惨なものとなるのが関の山である。

では、どうして差別やイジメが生まれるのだろうか。「金持ち喧嘩せず」といわれるように一部の成金を除けば、成功者や資産家は差別やイジメとは縁遠い世界に生きているし、それこそ善意から寄付や慈善活動を積極的に行うのが世の常である。逆に余裕のある育ち方をした篤志家と、成金に成り上がった金持ちとを見分けるポイントが、この利他精神にあるともいえる。成金は吝嗇で自分の得しか考えない一方、太い家に生まれた資産家は常に他人や社会の幸せを考えている

どうやらここにヒントがありそうである。差別やイジメは「箱根駅伝のシード権争い」ではないが、上位の争いとは別の「下位の争い」の中から生まれてくるものなのだ。人間は自分が落ち目になってくると、なんとか自分より弱いヤツ、レベルの低いヤツを見つけて、そいつを人身御供にして蹴落とすことで、自分は首の皮一枚助かる道を選ぶ習性がある。芥川龍之介の「蜘蛛の糸」の世界である。

多分、類人猿からの進化の過程で、その狡猾さゆえに他の原始人類を蹴落とすことで生き残り、現生人類であるホモサピエンスたることができたモチベーションがここに見て取れる。もっと「ユルい」類人猿は、ホモサピエンスのご先祖様に差別されイジメられたからこそ絶滅し、他人を地獄に落として自分だけ生き残ろうとする遺伝子もをっているホモサピエンスが、地球の主のようになることができた。ある意味、運命的な桎梏なのだ。

さて、最近目に余る「ポリコレ」である。最近では「正しい」とされることを強要する全体主義のようになっている「ポリコレ」であるが、差別やイジメが人間の遺伝子に組み込まれた「性」である以上、ポリコレの強要や言葉狩りとかをやったところで、何の解決にもならない。学校での「いじめはやめよう」と同じで、ヘイトやフォビアなどの表面的な暴力事件は減っても、その裏では人目に付かないところでより陰惨な差別やイジメが起こることになる。

これもまた日頃から主張していることだが、差別やイジメが人間の性そのものである以上、表面的に取り繕ったところでなんの解決にもならず(学校や会社の責任者が責任を問われなくなるという意味では、無責任リーダーにとっては問題逃れになるのかもしれないが)、全く意味がない対応としか言いようがない。というより、学校や教育委員会は基本的に役所なので、責任を取るのがイヤだから、「やってます」感をだすためだけの「対策」でしかないというべきだろう。

とにかく「人は差別するもの、イジメるもの」という認識を前提にして、その被害を最小限にとどめるにはどうしたらいいのかを考える方が、余程建設的である。イジメや差別が生まれる局面は明確なのだから、それに対する対策を考えるべきなのだ。すなわち差別やイジメの本質がブービーとブービーメイカーの間での最下位争いにある以上、最下位争いをさせないようにすることこそ、抜本的な対策になる。

だからといって順位を付けない運動会のように、みんな横並びである必要はない。差別やイジメは「入賞者」を妬んだりうらやんだりするところからは生まれないからだ。下位の順位が明確にならなければいい。その例としては甲子園の地方予選のようなトーナメント方式があげられる。一回戦敗退、二回戦敗退でも、優勝でないというだけで、その中に優劣は付かない。単に運の良し悪しかもしれない。一回戦で優勝チームに敗れたとしても、組合せが違えば準優勝だったかもしれないのだ。

これはある意味、コンピュータシステムからは出てこないものを作りだせる「天才」が求められる、21世紀の情報社会にふさわしい。一握りの天才は極めて重要だが、あとは十把一絡げ。努力の秀才などは評価外である。つまり、優勝=天才以外は質的な差がつかない社会である。このオキテに合わせた社会構造を作れるのであれば、差別やイジメの芽が生まれることのない環境を実現できる。情報化は、こんなところでも人類の未来を築いている。もっとも、人々がそれを受け入れられればという前提は付くのだが。



(22/09/23)

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