成り上がりの終焉





成り上がりは権力に就くと、死ぬまでそこにしがみつく。得られた利権を、最後まで吸い尽くしたいからだ。リーダーやトップのポジションを、最も重い責任を取るべき地位とは考えず、組織の中で最もおいしい地位としか見ていないからそういうことになる。それゆえ、最後は見苦しくなる。共和制で大統領になったにもかかわらず、独裁的になった人。企業でも、サラリーマン社長にもかかわらず、権力にしがみつく人。しばしばそういう問題が起きるのは、帝王学を学ばないまま、権力の座についてしまったからだ。

そもそもこの問題は、産業社会において秀才エリートが重用され、秀才エリートというだけで人格を無視してしかるべきポジションに就けてしまったことによる。テクノクラートとして秀才エリートを重用するのは、情報化が進んでいない段階の社会においては、大きな組織を運営するためには必要であった。この時代においては、秀才エリートのテクノクラートは労働集約的な情報処理作業の中心的存在として重用された。しかし、それはあくまでもスペシャリストとして、そのコンピタンスを利用することが主眼である。

しかし官庁のように組織内が秀才エリートばかりになると、彼らが組織を牛耳るようになり、トップや責任ある地位にも秀才エリートが就き権力を握るようになる。彼らは確かに専門知識はあるが、リーダーシップの何たるかを知る帝王学に触れる機会はないまま育っている。中には、貴族層など上流階級出身の秀才エリートもいたとは思うが、それは絶対的に少数である。秀才エリートの多くは、ノブリス・オブリジェも知らないまま、単にテストでいい点を取り偏差値が高いというだけで成り上がってしまった者達だ。

産業革命以降の産業社会の発展においては、常に生産技術・生産力が先に発達し、それを運用・管理するための組織や手法は後手に回っていた。このため、20世紀末になってコンピュータとネットワークによる情報処理技術が実用化されるまで、情報処理は全て人海戦術で処理されていた。1950年代になっても、銀行などにおいては手書きの帳簿とそろばんで管理が行われており、午後3時で窓口が閉まるというのも、それ以降残業も含めて帳尻が合うまで手計算と帳簿付けを行う時間が毎日必要だった名残である。

秀才エリートを責任ある地位につける経営者は、士業やコンサルタントにどう経営したらいいか戦略そのものを聞こうとする経営者のようなものである。彼等は、あるプランが法制度的に問題ないかとか、フィージビリティーがどのくらいあるかとか、専門家としての助言を求める相手であって、経営代行業ではない。戦略を考えるのは、そしてその内容に責任を取ることこそ経営者の仕事である。それができない者は、責任ある立場には立つべきでない。

テクノクラートとしての秀才エリートの立ち位置は、このように士業やコンサルタントと同じである。組織内にいて、リーダーの判断をサポートする役目である。彼等に権限を与えたり、判断そのものをさせてはいけないのだ。彼らが牛耳るようになった組織はどうなるか。右肩上がりの高度成長で、誰がリーダーでもオーガニック・グロウスが得られる状況ならそれなりに回るであろう。1960年代の日本がいい例だ。まさにお猿の電車。無責任で何もしなくても、そこに座っているだけでよかった。

その一方で、秀才エリートが跋扈する組織が、リーダーが肚をくくった危機的状況に見舞われたときにどうなるか。それは太平洋戦争時の帝国陸海軍の末路が如実に語ってくれる。まさに「失敗の本質」である。軍隊になれなかった官僚組織では、想定外の危機が連続する有事は乗り切れない。これは人類普遍の真理であるが、特に近代日本では顕著であり、そのアキレス腱となっていることは歴史が示している。秀才エリートの官僚が責任ある判断をするポジションを占めた組織には敗北しか残されていないのだ。

21世紀においては、テクノクラート的機能はAIにより置き換えられる。ネットワーク上に蓄積された人間では扱えないような豊富な知識から瞬時に演繹的に解を導くAIは、まさに今まで秀才エリートに求められていた機能を桁外れのパフォーマンスで実現する。秀才エリートはAI以下の存在として、もはや特別な存在ではない。それ以前に、努力して勉強して知識をつける行為など、何も意味しないものになってしまう。筆者はもう40年以上前からこのことを主張していたが、ここに至ってやっと広く認識されるものとなった。

真のエリート、すなわち生まれた時から帝王学を叩きこまれ、リーダーとして責任を取り得る気概を身に就けたものだけが、トップに就くことを許される。もはや成り上がりが就くべきポジションはない。天才的な才能や財産など、生まれたときから背負ったものがない者がいかに努力したところで、得られる果実はどこにもないのだ。情報社会では、もはや成り上がるチャンスはない。そんな産業社会の夢物語は速く捨てた方がいい。あきらめて自分の持ち合わせたものだけで幸せに生きる方法を考えた方がよほど人生は充実するだろう。



(22/10/14)

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