「見栄左翼」老人





団塊世代の老人は、若い頃見栄を張って背伸びをしまくっていた。団塊の世代は、背伸びの世代、見栄の世代なのだ。そもそも見栄を張るというのが、社会が貧しく貧富の差が激しいが、経済はテイクオフし成長している時代特有の遺物である。従って高度成長期からバブル期を経て日本社会が安定した後に生まれた層は、そもそも見栄を張ることがない。だからこそが今の40歳代以下の層では、見栄を張らず・背伸びせずという生き方が主流となっている。

ところが、「成り上がるチャンスを掴むにはバスに乗り遅れるな」が基調だった高度成長期のまっただ中に育った団塊世代は、背伸びをして成り上がることが生きがいであった。もちろんそれで成功した人も多いだろう。しかし多くの人は、成りたかった夢を実現できないまま、自分が敗者であることを認めたくないため、自分が実態より豊かで余裕がある層に属しているかのごとく振舞うことで、自分をよりハイレベルに見せようと常に努力してきた。

こういうルーツがあるからこそ「見栄世代」になったのだ。彼等が若者だった昭和40年代のマーケティングは、まさにこの世代がメインターゲットだったため、その見栄をくすぐるように仕掛けられたし、面白いようにそれに引っ掛かった。日常の生活も見栄の塊だった。全然話の筋について行けなくても、洋画は吹き替え版ではなく字幕版を見る。実は鮭茶漬けや梅干しにぎりが好きでも、日本に出来たばかりのマクドナルドでハンバーガーとコカ・コーラを注文する。

本来そんな商品は出していなくても、単に高級ブランドのマークさえついていれば喜んでしまうという、1970年代日本の「第一次ブランドブーム」の主役も彼等だ。この世代は今になってビートルズ世代とか自称しているが、当時の洋楽の売り上げは邦楽の売り上げより一桁低かった。ビートルズの曲はラジオでもかかったので聞いたことはあるとは思うが、決してアルバムを揃えるようなファンではなく、そういうマニアはごく少数であった(洋楽もヒット曲のシングル盤中心)。それが今になって見栄で「ビートルズ世代」を称しているのだ。

それが高じて、この世代はひねくれた判官贔屓になる。絶対的なヒーローが好きなのはミーハーであり、玄人はそのライバルを応援するというような、ひねくれ過ぎたモノの見方になっているからだ。ミーハーではなく玄人とみられたいからこそ、見栄を張って判官贔屓をしたがる。だからこそこの層の老人に熱心な阪神ファンが多くいるのもうなずける。老人の野党支持率が高いのもそのせいだ。今や野党の支持者は老人のみの絶滅危惧種でレッドリスト入りだ。まあ「左翼なのでレッド」というオヤジギャグにはなっているが。

その裏には与党を支持するのは低学歴の肉体労働者で、高学歴の知的エリートは野党を支持するという、間違った先入観がある。確かに、昭和20年代においてはそれまで翼賛だった知的エリートが、自分達の免罪を求めるがごとく一気に政府を批判し、社会主義的な野党支持に走ったのは確かだ。それを刷り込まれた老人は、見栄っ張りぶりを発揮し、自分達がその他大勢の大衆でないことを示すがごとく、野党を支持する。

彼等は全共闘世代といわれるが、大学進学率が1割台だった時代である。リアルタイムで学生運動に関わったのは、極々少数者でしかない。ボリュームゾーンは高卒後集団就職で首都圏や近畿圏の大企業の工場のブルーカラーとなった人達だ。なのだが、大卒のホワイトカラーには会社の仕事で接してきただけに、学歴には妙なコンプレックスを持っている。このため根っからの性根がムクムクと持ち上がり、こんなところでも見栄を張るワケだ。

彼等の野党支持は思想信条の問題ではない。そっちの方がカッコいいと思って見栄を張っているだけなのだ。だからこそタチが悪いともいえる。しかし、彼等は戦後の経済復興と高度成長という特異な時代が生み出した徒花であり、結果として本当の豊かさを知ることができなかった時代の犠牲者なのかもしれない。とはいえ「ポツンと一軒家」の限界集落のように、時の流れとともにフェイドアウトし、歴史の中の記録としてのみ語られるようになるのであろう。それをナマで見れたということは、我々は運が良かったのかもしれない。



(22/10/21)

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