Get Back!(戻るところに戻る)





人間社会の歴史を見てゆくと、何度も社会構造の大転換が起こっていたことが読み取れる。変化の最中には、嵐に翻弄される船のように、あたかもコントロールを失いこの世の終わりが来たかのような目で捉えられがちであることも見て取れる。しかしそれは一時的な現象で、長い目で見た場合社会のバランスは必ず取れて、再び新たな安定が生まれてくることも歴史が教えてくれる。行き過ぎたら戻ってくるし、ぐるぐる回ってどこに行くかわらなくなっても、フーコーの振り子のように次の日の朝には元に戻っている。

テクノロジーと人間の付き合い方もそうだ。多分有史以前の、火の使用、道具の使用といった、ホモサピエンスが誕生する契機となった転換点の頃から、新たなテクノロジーがもたらされるとともに社会的が大きく揺れたのは間違いない。その頃から、新たなテクノロジーを前に、革命的な新テクノロジーを積極的に受け入れる層と、新テクノロジーに対して拒絶する層とが現れ、その間でコンフリクトが起こっていたと思われる。このように人間社会に新たな技術が導入されると、それに対する姿勢から対立が起こるのである。

情報社会化が進んでいる21世紀の今は、ある意味産業革命の真際中だった18世紀から19世紀への変わり目の時代と似ている。産業革命により、中世以来の停滞した封建的社会から現代的な産業社会へと社会構造が転換した。それと共に、あらゆるものに関してパラダイムシフトが起こった。そして今その産業社会が終焉を遂げ、新たな情報社会へと移行している。これはまさに「情報革命」であり、これから数十年をかけて社会のあらゆるものがパラダイムシフトを遂げてゆくことは間違いない。

当時は機械によりと人間の肉体労働が代替されてしまうという懸念から、機械を必要以上に目の敵にする人達が増え、ラッダイト運動のように過激な暴力に訴えてまで「反機械」をアピールする活動家まで現れた。しかし産業革命が進展することにより、人間の労働は肉体労働だけではなく機械を運転・管理・整備する作業や、生産力・生産量の増加に伴う事務・管理作業など新しい仕事が登場し、そこに雇用が生まれることでおのずと問題は解決していった。

人間社会には一定の比率(それも比較的高い比率)で、新たなチャレンジを嫌い終わりなく日常を繰り返すことを好む人達がいる。こういう人達は変化を好まない。新たな動きが起こると、なるべくそれから遠ざかったり否定したりしがちである。その違いが顕著になるということは、とりもなおさず人類史的な「変革期」に差し掛かっているということを意味する。それは視点を変えれば、新たなスキームに活躍の場を探したいマインドの高い人達にとっては大きなチャンスの時期であることを示している。

情報社会に足を踏み込んだ今、そのコンフリクトが一番顕著に表れているのはAIと人間の役割分担である。ここでも何度も論じているように、マジメに勉強して努力することにおいては、どんな秀才でもコンピュータネットワークのAIには敵わない。かつてはエリートのテクノクラートとしてチヤホヤされた秀才も、脳の筋肉力だけが取り柄のでくの棒といて、ラッダイト運動の時の力持ちの肉体労働者のような位置付けになってしまった。自分の椅子を追われる危険性に徹底的に反発している。

おまけに、この層は実は産業社会の時代も付加価値を生み出していなかった。「指示されたことを指示されたようにこなす」というのは、まさにプログラム通りにコンピュータが動くというのと同じことである。ところが産業社会の段階では、機械の方がそこまで進歩していなかったので、こういう「本来機械に任せた方がいい」作業も人間がこなしていた。それは機械の進歩と共に、どんどん機械化されていった。そして事務・管理作業といったデスクワークも機械がこなすようになったのが情報社会である。

「指示されたことを指示されたようにこなす」ことでも仕事となり、それで給料が貰えていたのが産業社会なのだ。その結果、なにも考えずに手練手管だけで手先を動かすだけで、仕事をした気になっている人が大量に生まれた。もっというと、こういう人達は「指示されたことをいかにきちんとこなすか」に自分のアイデンティーを見出すようにさえなった。まあ、その「生きがい」が否定されてしまいそうになっているのだから、反発が強いのもわからないではない。

とはいえ、同じ土俵でコンピュータに勝てるわけがないのだ。コンピュータの導入がバリューチェーンの構造を変えた事例は、クリエイターの分野では90年代以降いくらでもみつける。それらを見ると、何も付加価値を生み出していない手先の作業こそ淘汰されてしまったが、人間のやるべき仕事はキチンと残っており、そこで生み出される付加価値こそが仕事の本質であったことがよくわかる。逆に言えば、些末な「作業」から解放されて、より高付加価値の仕事に専念できるようになったのだ。

DTPによるデザイン業界でのコンピュータの導入では、フィニッシュ作業こそ独立した事業とはならなくなったが、アイディアを表現化するアートディレクションができていた人は、自らパソコン上で作品を作ることで、逆に版下製作の領域まで業務とするようになった。DTMによる音楽制作でのコンピュータの導入では、音源制作の単価こそ下がったものの、作曲者が一人で自室のパソコン上で完成音源まで作ることができるようになった分、作曲者の収益性は増した。

このように、才能を持っている人にとっては、社会の情報化はその才能を高く売るチャンスうともなっている。情報社会においては、頭を使わず労せずしておいしい思いができた利権が失われるというだけで、人類全体で見れば、かえって適材適所でより多くの付加価値を生み出せるチャンスが増すことになる。そして付加価値を生み出せる人間が寄り社会的に評価されるようにもなる。まさにこの変化をチャンスと思える人材を大胆に抜擢することこそ、明日へ向かう最短コースなのだ。



(22/10/28)

(c)2022 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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