管理されたい人





法律、マニュアル、お手本、日本人には規範を与えられてその通り生きることしかできない人が結構多い。どんなことでも自分で発見して自家籠中のものとすることは可能だし、その方が自分の身になるのだが、先生から教えてもらわないとやれないという人もかなり多い。これらの共通するのは、主体性のない「受け身で生きていたい」人間だということだ。日本人の過半数は受動的な性格であるといっても過言ではないだろう。それほどまでに、これ日本人の宿痾ともいえる特徴である。

産業社会の時代の20世紀には、機械の生産力は飛躍的に高まったものの、情報処理は人海戦術でこなすしかなかったので、基本的にライン型のヒエラルヒーの組織が主流となり、「いわれることをきちんとこなす」職務がたくさんあったので、このような性格が問題となることはなかった。いや、逆に組織の歯車としてこそ活躍できる人材ということもできるだけに、このような人間が多いのがメリットとして生きていた部分も多々あり、それが高度成長をもたらしたともいえるだろう。

情報社会になり、人間の役割として、自分が自分で責任を取って判断しなくてはいけない職務が多くなると、こういう受け身で責任を取れない「甘え・無責任」の人達は居場所を失う。その分、「管理してほしい」欲望が強まるのだ。社会の情報化が進んで、自己責任が重視されるようになった90年代以降、法律やルールを必死に守ってそこにしがみつく人が増えてきたというのも、この「誰かに管理して欲しい」という無責任な発想ゆえである。お上頼りが増えたのも同根だ。

ゴリゴリの産業社会だった高度成長期とかの頃の方が、もっとアウトローで脱法行為が平然と行われていた。貧しい社会だったので、自分で自分の身を守らなくては生きてゆくことはできない。誰も生活の保障などしてくれない。これでは、法律など守ってはいられない。戦後の経済混乱の時期、闇物資を買わずに餓死した裁判官がいたというが、それがニュースになって後々まで語られるほど、だれもルールなど守らない時代だった。それでも人々は力強く生き、日本経済は10年で戦前並みに復興した。

「アウトロー上等」という気風は、その後も受け継がれてゆく。マイコン革命と呼ばれた70年代後半は、ハッカー精神が技術を研ぎ澄ませて行った時代だ。勝手に電話線に自作の高性能モデムを繋いでパソコン通信を行ったり、強力な電波を出すコードレスホンを作って、近くのコンビニから電話をしたり、法制度的には禁止されていても、技術的に可能なことは全てトライし実現することで、ルールを破る中からどんどん新技術が生まれていった。エンジニア自身が「技適」なんてことを言い出す昨今とは大違いだ。

言われたことをきちんとこなせば、それで許され評価されるというのは、実は非常に甘い世界だ。社会の一員としてやるべき努力をせずに、その成果だけを得ようとしているに他ならない。努力というのは言われたことをやって汗をかくことではなく、自分がリスクを取って成果を得ることである。そもそもここがわかっていない人があまりに多い。産業社会においては一部の限られた人が価値を生み出し、残りの大勢はその価値を分け合うゼロサムゲームをやっていただけだ。

自分でモノを考えるというのは、極めてエネルギーを使う。クリエイティブな作業をしていると、異常なまでに腹が減る。脳はブドウ糖しかエネルギー源にできない組織である。新しいモノを思いつくプロセスでは、脳に異常な負荷がかかる。脳をフル回転させていると、どんどん血中の糖分を消費してゆく。脳をフル回転させ真剣にモノを考えたり創り出した経験のある人なら、頭を使うとどんな体力を使うランニングやトレーニングよりも驚くべきスピードで「腹が減る」ことを知っているだろう。

その消費した糖分の持っていたエネルギーは、どこへ行っているのだろうか。果たして、それを考えたことのある人がいただろうか。人体内でもエネルギー保存則は成り立っている。肉体運動をすれば、血中の糖分のエネルギーが物理的な運動エネルギーに変わっていることはわかりやすい。蒸気機関では石炭のエネルギー、内燃機関では石油のエネルギーが運動エネルギーに変化するようなものである。同じように脳の消費したエネルギーも、何かに変わっているはずである。

人間の脳は、血中の糖分をエネルギーとして、無から有の「情報のネゲントロピー」を生み出している。情報社会においてその進化の根源となる情報のネゲントロピーを生み出せるのは人間だけである。システムをそのまま放っておけば、システムを動かす電気エネルギーの分だけはプリコジンの「開いた系での平衡」で、システムの情報エントロピーが一定値に保たれることこそあれ、エントロピーが減少することは構造的にありえない。

こういう掟があるからこそ、AIの時代である情報社会においては、情報のネゲントロピーを生み出せる人間が機械システムのヒエラルヒーの頂点に立つのことができるのだ。管理されたい人は、機械に管理してもらえばいい。そしてその機械を管理するものこそ、情報のネゲントロピーを生み出せる人間だ。これこそ情報社会の最大の特徴である「コンピュータは、コンピュータの上と下に人を作る」の正体である。管理されたい人は管理されていろ。それは情報社会における人間の存在価値ではないのだが。



(22/11/04)

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