意欲の違い





「組織のため」「他人のため」に頑張ろうと思ったところで、所詮はいつかは燃え尽きてしまう。たんまり金を貰えている間であれば、せいぜい組織のためにも頑張れるのだろうが、それでは「金の切れ目が縁の切れ目」になってしまう。また金を貰っていても、その負荷と得られる金額がアンバランスになり、費用対効果が間尺に合わない(つまり「こんな薄給で、こんなハードな仕事がやれるか」ということ)状態になれば、そこで意欲も減衰してこれ以上続けられない状態になってしまう。

その一方で、「自分のため」にやっていることは燃え尽きない。ある意味、それをやることによる自分の満足感が得られていれば、その満足感の大きさや費用対効果は問題とならないからだ。アーティストでも、販売するためや誰かのために作った作品よりも、あくまでも自分のが作りたくて作り自分の手元においておく作品の方に、より多くの創造性をつぎ込んだものが多く見られる。これはこの「自分のため」の無限性を如実に表している。

人間にはこういう性質があるから、「自分のため」であれば、いろいろな面で客観的に得るものよりも自分の精神的な充足の方を重視し、持ち出しであっても「実現すること」を重視するようになる。実はある程度以上豊かな資産を持っている人は、かなり多くの場合持ち出しでも自分のビジョンは実現させる。その結果、現代美術の愛好家でパトロンとして多くの20世紀のアーチストを育てるとともにグッゲンハイム美術館を残したソロモン・R・グッゲンハイムのように、社会のために大きな足跡を残すことにもなる。

最近SDG'sがトレンドとなっているが、日本においてはその本質を見誤っている部分がある。CSRの頃からその傾向があったのだが、「企業=悪」という歪んだ価値観を持つビジネスを知らない社会活動家とかが喜んで飛びついたがゆえに、事業やビジネスと対立する概念としてとらえられがちだ。それゆえ、「ためにする」古典的な慈善事業観とも結びつきやすく、「本業の罪繕い」の献金的にみられてしまう。しかし、これは21世紀的なグローバルな見方とは真っ向から対立する。

グローバルな価値観では、企業の本業がいかに社会や人類のためになっているかが問われている。SDG'sも、企業の本業が17項目のどこで貢献しているかを問うものである。たとえば、貧困国で雇用を生み出していれば、1番の「貧困をなくす」に貢献していることになるというような具合である。三方一両得ではないが、自分も社会も得になる道を選ぶことが、最もサステナブルであり、中長期的な利益も極大化するのだ。「自分のため」は、「社会のため」でもあるのだ。

ここが成金と資産家の違いにも繋がっている。日本でも古くは明治時代には、多くの地方の資産家が篤志家として地元の振興のために個人の資産をつぎ込み、学校や鉄道を作ったり、地元の優秀な人材に都会で高等教育を受けさせ、地元に役立つ人材に育て上げたりした。これは自分の地元が栄えて欲しいという個人的ビジョンの実現であると共に、地域への投資にもなっている。短期的には社会貢献の支出に見えるが、中長期的には、地元の経済や文化を振興させ、結果的に発展した地元経済をベースに自分の事業も拡大することになる。

自分のビジネスは地元に根差しているからこそ、地元が繁栄しないと自分の事業も成長しない。だからこそ、短期的な利益を狙った投資ではなく、地元の経済や文化の発展に投資するのだ。短期的には持ち出しに見えても、中長期的には、地元も人材も自分も大成功し「三方一両得」になる。「ためにする」のではなく、本業の振興が地域や社会の振興に繋がっている。これこそまさに「SDG's」ではないか。

とはいえ、「自分のため」に努力するには、そもそも自分を持っていることが大前提になる。自分というアイデンティティー、自分という個性を持たなくては、自分がなにをやりたいのかさえわからない状態になる。自分を持っていないからこそ、他人の真似をし他人に指示されたように行動する。いつも主張しているように、そういう人はこれからの情報社会においては居場所がない。何をするにおいても、しっかりと自分を持っているかどうかがa大事なのだ。



(22/11/25)

(c)2022 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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