ひがみの「正義」





「法律を守っている」正しさだけが自分の拠り所という人をSNS上でよく見かける。自分はキチンと法律を守っている分、法律を逸脱した人をここぞとばかりこれ見よがしに批判する。こういう人達は実は何一つ優れた能力を持っていない凡才なのだが、ルールを守っているという一点だけで自分が正義と思い込んでいる。それだけでなく、法律を守っていれば自分を「お上」が守ってくれるとまで勘違いしている場面にもよく出会う。まったく能天気な限りである。

実はこういう行動を取る人は、表立ってこそ出さないものの優れた能力を持っている人に対し根深いコンプレックスを持っている。自分の能力の無さを腑甲斐なく思っている一方で、「ルールを守っている自分こそ正義の側だ」というのが唯一自分のアイデンティティーの拠り所になっている。厳密にはアイデンティティーではなくそれに頼っているだけなのだが。だからこそ、能力のある人がルールを外した時に、ここぞとばかりに自分の方が正しい人間だと主張したがる。

たとえば、有名人や芸能人の不倫をこれみよがしに叩く人がいる。はっきり言ってしまおう。それは自分が異性にモテないコンプレックスの裏返しだ。自分が異性にモテる人間だったら、不倫大王のセレブを見ても「さもありなん」と思うだけだろう。しかし、彼女いない歴数十年の童貞君は違う。自分は清廉潔白だから「正義心で許せん」となる。とはいえ不倫をしようにも異性にモテなくては仕方ないし、そもそも配偶者がいない状態では不倫になりようがないのだが。

結局、自分自身の構造的問題に対して自分が責任を取れないから、他人に責任を押し付けて逃げようとしているだけのこと。単にひがみを正義の名のもとに正当化しようとしているに過ぎない。単なる暴力やテロを社会主義の理論の下に「造反有理」で正当化しようとする左翼過激派集団と同じである。自分たちはそれで正当化できている気分になっているが、社会的に認められたわけではない。それだけでなく、そんな独りよがりの理屈を振り回しても、自分達の無能さ哀れさを天下に晒しているだけである。

そもそも世の中には幸せな人は少なく、不満たらたらで腹の中が煮えくり返っている人の方が多い。これは人間の性だ。客観的に見れば実際にはそこそこ幸せであったとしても、「隣の芝は青い」とばかりに、周りの人の方が幸せに見えてそれで僻んでいる人も多い。だから昭和の時代、居酒屋でのオッサンの会話は会社の愚痴・家族の愚痴等々愚痴ばかりだった。かつてはそのはけ口がなかったので、ただただ我慢するか、愚痴るかぐらいしか手立てがなかった。

しかし、21世紀になってSNSが登場した。居酒屋での愚痴はせいぜいママさんに慰めてもらうのが精いっぱいだが、SNSでの愚痴は世界に届く。この「地球に愚痴る」快感は、野グソ・立ちションベンでお天道様に向かって放出する爽快感と同じだ。思いっ切りデカい声で愚痴を叫べば、ストレスも解消するというもの。かくしてSNSは、スマホと共にその普及が広まれば広まるほど、見るも無残な愚痴の巣窟となってしまった。「大衆化」とはそういうものである。

確かにSNSでの愚痴は気分がいい。だがストレートな個人的愚痴を発したところで誰も相手をしてくれず、ただただ発散の快感が得られるだけである。海岸で海に向かってデカい声で気に食わない他人を罵るのと同じ。その瞬間はそれなりの快感はあるが、ハッと気付いて我に返ると、自慰行為特有の「賢者タイム」の揺り返しがある。その結果かえって不満感が高まってしまうということもある。

しかし有名人のこけおろしに擬態した愚痴の書き込みなら、「炎上」という名の同じコンプレックスを持つ人達からの熱い賛同が得られる。まさに正義面してセレブを叩くような書き込みがこれである。炎上して集まる賛同の声の数は、最初にメッセージを書き込んだ人にとっても、あとからコメントを書き込んだ人にとっても、あたかも自分達のコンプレックスが正当化されたと思い込むに充分なものである。

かくして童貞諸君は、有名人の不倫を人倫にもとるものとして、鬼の首を取ったかのごとくはしゃぐことになる。こういう構造があるからこそ、SNS上では、自分ことを棚に上げた有名人への批判が続出することとなる。とはいっても、元を糺せばひがみやコンプレックスの裏返しに過ぎない。まともな人は、こんなものに付き合ってる暇などない。まあせいぜい「同類相憐れむ」で傷を舐め合って、同じ穴の狢同士でじゃれあっててくれ。どうせ情報社会に求められる付加価値の高い仕事などできないのだろうから。



(22/12/09)

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