貧民の幻想





本来社会のセーフネットをどう構築するかということと、社会の運営システムをどのようなものにするかということは、全く次元の違う別の問題でありそれぞれ別に独立的に吟味・検討しなくてはならない。セーフネットと再配分は本質的には構造的に異なる。セーフネットは純粋に民間ベースで構築することも可能である。にもかかわらず、これを敢えて一緒ごたにした上で、バラ撒き・利益誘導の政治システムとしてしまったところに20世紀的な社会主義・共産主義の問題がある。

まあ、生産力が低かった時代は「富」に限りがあったので、それをどう工面してバラ撒くかというのが極めて政治的な課題になってしまったという側面もあったということはできるだろう。貧しい国においては、開発独裁ではないがわずかな富を国が集中して集めて、日本の戦後の「傾斜配分方式」のように、重点投資領域に集中的に投入しないと、「二兎を追うもの一兎を得ず」でどれも中途半端に終わってしまい、何一つ成果が得られない可能性も高いからだ。

マルクスは哲学者であって、経済学者でも政治活動家でもない。彼が言いたかったのは、ヴィジョナリストとしての「生産力が高まって社会が豊かになれば、誰もが充分な分け前を得られるようになる」という未来の理想である。これはこれで間違っていないし、人間に向上心がある以上目指すのはそこであることに間違いはない。マルクス自身が著述したのは資本論の第一部だけである。そこでは哲学的に富の本質を分析しているのみである。

同時に富の本質の分析から、未来的には生産力が一段と高まり、それにによって誰もが満ち足りるようになるという予想を示す。しかし具体的に示したのはそのような「理想の未来像」だけであって、彼自身がそこへの道のりをバックキャスティングしたわけではない。第二部、第三部はエンゲルスが換骨奪胎して作ったものである。そしてマルクスのヴィジョンを看板として利用したのが、政治活動家のエンゲルスである。

自分達が政治権力を握るために、中央集権的な富の再配分システムを作り、それをバラ撒くことで貧しい層の支持を得る。社会主義が誕生した理由はこれである。そのためのアジテーションとして、自分たちの手口を正当化するために共産主義理論を打ち立てた。マルクスの元来の人間社会の理想像を示すものから、特定の政治勢力の正当性を示す理論になってしまったのだ。百歩譲って、産業革命直後で西欧列強と言えどもまだ貧しかった19世紀末の社会を考えれば、このようなアジテーションもそれなりに社会的意味があったろう。

しかし、その後も人間社会の生産力は拡大し続け、少なくとも先進国においてはマルクスの描いた「理想世界」のあり方にかなり近づいてきた。とはいえ先進国でもまだ貧富の差はあり、セーフネットが必要な人もいる。2世紀の時を経て社会は大きく変わっているにもかかわらず、産業革命直後の貧しい社会における再配分をモデルを援用するには無理がある。にもかかわらず、左派政党や「リベラル有識者」の発想はそこから一歩も抜け出ていない19世紀の遺物のままである。

こういう時代においてはセーフネットは再配分とは切り離し、21世紀的なあり方を確立しなくてはならない。それを怠ると、単なるバラ撒きになってしまう。すでにセーフネットが必要な人以外も、バラ撒きにありつきたいがために左派政党を支持するようになっている。というよりは、そういう人達、特に強欲な老人しか、野党の支持者がいなくなっていることは歴然とした事実だ。だがこれでは必要なセーフネットを構築できなくなってしまう。これでは問題が大きすぎる。

左派政党の馬鹿の一つ覚えである「大企業増税」で金を集めるのではなく、事業の一環としてセーフネットを実現した企業に対しては、そのコスト以上の大幅な減税をした方が、よほどローコストでセーフネットを構築できる。バラ撒きといっても原資がなければバラ撒けない。どこかに無限に金を生み出す「打出の小槌」があるというのは、右肩上がりの高度成長期ならいざ知らず、安定成長の時代においてはありえないからだ。まだそんなものに期待するのは貧民の幻想に過ぎない。頭の中がお花畑過ぎる。



(22/12/23)

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