左翼の焦り





暇空茜氏が提起した問題がTwitter上で燎原のように広がり、心ある人たちの間では現在最もホットな社会問題となっている。ある意味イーロン・マスクCEOのTwitter改革のタイミングともジャストフィットでマッチし、UGMがかつてのようなボトムアップで改革を起こす触媒としての機能を取り戻したかのようである。この数年Twitterのタイムラインを見るだけで心を痛め憤慨することが多かったのだが、このような「清々しい」気分になるというのは本当に久しぶりだ。これもイーロン改革の成果と言えよう。

これは、東京都がColaboなど4団体に委託した若年被害女性支援事業に関して起こった問題である。もちろん総論としての事業の趣旨はとても良いのだが、そもそも委託した業務内容が不明確な上、毎年の事業報告も行われず、結果的にガバナンスのないノーチェックでの税金のバラ撒きになっていたのだ。さらにその元締めとして都道府県の業務を司る厚生労働省の審議会のメンバーが、実際の活動を行っていた業務当事者達であり、完全な利益相反のいわゆるお手盛りで行われていたことも判明した。

それだけでなく、若年被害女性支援事業を委託された団体の理事等主要メンバーは、表現の自由を規制しようというフェミ・テロリストや沖縄の反基地の運動などにも加わっており、これらの団体を通してバラ撒かれた税金がこれらの活動の資金になっていた可能性も、補助金が使途不明になっている以上否定できない。この疑惑を晴らすためには、きちんと資金の使途をディスクローズして、本来の目的に使われていることを示す必要がある。これでは、真面目に若年被害女性支援事業をしている団体まで疑われてしまうではないか。

さらには、政治活動をしている団体は、宗教団体等と並んでそもそもこれらの事業受け皿とはなれないことは、募集時の要綱に明記されている。しかし、救援を求めてきて保護した若い女性を沖縄の基地反対運動に動員した「実績」もあり、この点についても説明責任を果たさなくてはならない。とにかく、ズブズブ・ボロボロである。民間企業であれば、高度成長期以前はさておき、21世紀の現代ではありえないコンプライアンス・ガバナンスの欠如が目立つ。

だが、公表が義務付けられている一般社団法人決算公告や活動計算書、東京都への情報開示請求により公開されたほぼノリ弁状態に黒塗りされた報告書の垣間見れる部分を突き合わせてColaboの活動分析をしただけでも、これらに関していろいろな矛盾点や疑問点のてんこ盛りであることが判明してしまった。ここで面白いのは、現代のリスクマネジメントとしては、正しい情報を公開してあやまればいいだけなのだが、内容を公開したくないのかできないのか、全否定の徹底抗戦を選んでしまった点だ。

当事者である4団体やその支持者が、記者会見での対症療法的な言い訳をしまくったり、問題点を指摘した相手に対する訴訟を起こせば起こすほど、どんどん墓穴を掘り自らの立場を危うくしている。もちろん、この根底には左翼・リベラルの人は基本的に情弱で、インタラクティブメディアのリタラシーが欠けているという問題もあるが、それだけでなくそもそも自分たちの「理論武装」が虚構の上に構築された砂上の楼閣であるということが影響している。

産業革命以降20世紀までの産業社会ならば、最終的な落としどころは「富の分配」であったので、その手段は問われなかった。力で分捕ってくればいいので、なにより「同志の団結」ことが重要であり、理屈は仲間内だけで通じていればよく客観性は必要なかった。そして、上意下達での絶対服従、無謬の執行部、上から目線の啓蒙、唯一絶対の正義と多様性の否定といった、かつての東側諸国の共産党から、労働組合、さらには新左翼過激派にまで共通する「左翼組織の特色」もここから生まれた。

彼等はそもそも身内にしか通じない独善的なドグマにしがみついているのだ。これでは、ダイバーシティーが求められる21世紀の情報社会で通じる議論ができるわけがない。そう考えると、左翼・「リベラル」の人達が、自ら勇み足でオウンゴールして自滅することがこの数年多くなっている理由もよくわかる。自分が武器・強みと思っていたものが、全く通用しなくなっていることに焦って自ら失敗を招いているのだ。もしかして、ロシア軍が弱かったのも、旧ソ連伝来のこの習性が理由なのかな。



(22/12/30)

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