九品仏





東急大井町線の下りで自由が丘の次の駅が「九品仏」である。九品山唯在念佛院淨眞寺があるため、この駅名となったが、二十五菩薩来迎会(おめんかぶり)で有名な名刹である。それはさておき、この寺の山号となっている「九品」が今回のテーマである。浄土信仰に基づく救済は全ての人に対して与えられるのだが、その現世で与えられた性に従ってその中身とプロセスが異なる。それを与えられた性ごとに説き、どうやれば阿弥陀様の救いに触れることができるかを説いたのが「九品」である。

これはもともと中国漢代に提唱された「性三品説」に基づいている。人間は生まれながらにして上品・中品・下品の三品に分けられていてそれを背負って生きなくてはならない。上品とは生まれながら善であり教化する必要がない人である。下品は生まれながらの悪でありそもそも教化する対象ではなく教化することもできない。その一方で中品は善にも悪にもなる可能性があるからこそ、これを教化することにより善へと導き悪に落ちることを防ぐ必要があると説いた。

この三品各々に対して、上生、中生、下生の三生を設定し、3×3の9つのレベルに対して浄土に往生するためにはどうしたらいいかを説いたものが浄土信仰の九品である。これは「観無量寿経」に説かれており、九品往生という。すなわち阿弥陀如来の思し召しにより下品も含めて皆極楽浄土へ往生することはできるのだが、衆生の機根の違いにより、9つの道が示されているのである。一切衆生は本質的にみな迷える存在であるが、そのレベルが違いそれぞれに従って念じれば成仏できるという捉え方だ。

上品上生はもう現世において悟っている人。上品中生は現世において功徳を持っている人。上品下生は深い信仰心を持っている人。いずれにしろ上品は現世で徳を体現している人である。中品上生は人間としての実生活において良い事をしている人、中品中生はまじめにきちんと生きようとしている人、中品下生は不器用でも人の道を守ろうとしている人。このように中品は信仰心は薄くとも、現実社会の中で悪いことをせずキチンと生きている人は、成仏できるという枠組みである。

一方下品は現世において悪者となってしまった人達だ。下品上生は偶然に悪を行ってしまった人だが、念仏を唱えれば阿弥陀如来により救われる。下品中生は故意に悪を行ってしまった人だが、臨終の時に阿弥陀如来に帰依すれば地獄に落ちることはなく成仏できる。下品下生は地獄に堕すべき者だが、改心して阿弥陀如来の名号を唱えられるようになれば往生することができる。どんな人でも浄土信仰の基本である、キリスト教の「予定説」にも似た、現世で与えられた業を受け入れて頑張れば浄土(天国)に行けるという信仰だ。

このポイントは、人間は平等ではあるのだが、与えられた能力や試練が異なるので、それにあった人生の努力をすることで救われるというところにある。これはある意味人間社会の本質だ。現代でも全く同じである、人間の能力は全国統一模試の成績のように、一番からビリまでリニアな一軸に並んでいるのではない。構造的な違い、質的な違いがある断層がいくつかあり、単純に比較はできない非連続な並びとなっている。これは21世紀の情報社会となってよりはっきり表れてきた。

現代社会でも、九品は九品。歴然とした「品のキャズム」が存在している。その中でも最も重要なのは「上」と「中」の境目である。具体的な「境界」としては、「中の上」と「上の下」との違いということになる。比べてみれば、偏差値的な意味では中の上の方が上の下より点数は高いかもしれない。しかしテストの点数では測れない「人間力」の深さや広がりという面では、「上」グループと「中」グループの間には、決して越えられない深い谷間がある。点数ばかり気にしてい人は、この違いに気付いていない。

中の上、それも飛び抜けて「上」で点数が良いのが秀才である。秀才の問題は彼等が「知的成金」であるところにある。成金は大儲けして金はたんまり持っているが、人格はその育ちの悪さを反映して卑賤なままである。だからこそ、金に汚くなり、さらに人から妬まれるようになる。同じように秀才はテストの点数はいいかもしれないが、人間としての器がない。それは、人間としての器を磨く心の深さや教養は、教育や努力ではどうにかなるものではないからだ。

人の器はミームが長い時間をかけて初めて形作られるものである。人から人へと伝えられてゆく。器の大きい人に接することができれば、その人の器も大きくなる可能性が高い。戦前の日本の地方には資産家の篤志家がいて、その地域の優秀な若者のパトロンとなって教育のチャンスを与えることが多かった。これは、単に金を出して都会の学校を卒業させてやるだけでなく、若いうちにしかできない質の高い経験を多く積ませて、人間としての質を高めるプロセスまで含まれていた。

旧制高校は教養の香りが溢れていたというような論調を聞くが、これは旧制高校がカリキュラムとして教養を重視したのではなく、もともと教養高く育った人材が集まっている(そういう人材しか戦前においては高等教育を受けなかった)からである。もちろん、旧制高校では江戸時代からの士族や華族の子弟も多く学んだが、篤志家はそこまで含めて人材を育てたからこそ、地方の優秀な学生も単なる「ガリ勉」ではない人材となって旧制高校に入学できたのだ。

AIの時代に重要になるのは、この違いである。教育や努力で何とかなるものは、AIに勝てるわけがない。しかし教育や努力ではどうにもならないミームの生み出すものこそ、人間ならではの強みである。これはコンピュータシステムや機械で代替できるものではない。人間には持って生まれた「業」がある。器が大きいのも小さいのも、阿弥陀様や神様が与えてくれた宿命である。器が大きく生まれた人は、それを人類のために活かすことが成仏できる道なのだ。親鸞聖人の教えは今でも生きている。だからJIS第二水準に「鸞」の字が入ってるともいえよう。



(23/01/06)

(c)2023 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる