官僚の業





官僚は何よりも自分が責任を取るのを嫌がる。これが明治以来近代日本の官僚の行動様式の本質である。そして官僚機構の組織論も、全てこの「個人が責任を取らなくていいためのシステム」を目指して構築されてきた。その中ではメンバー一人一人のパーソナリティーは消え、顔のない肩書だけが存在し、肩書の組み合わせで作業処理が進行してゆく。問題が起きてもその責任は人格のない「肩書」にあり、肩書を背負った個人は全く傷つくことがない。

近代日本における最初の合理的組織である官僚機構がこういうスキームで作られてしまった以上、その後に登場した日本型組織は軍隊も営利企業も教育機関も、あらゆるものが官僚機構のスキームを受け継ぎ・取り入れて構築されてきた。責任を取る人がいないので、順風満帆右肩上がりの時はそれなりに回っても、一旦非常事態が起きるとリーダーは蜘蛛の子を散らすように逃げだしてしまい、そのまま暗礁に乗り上げてしまう。

太平洋戦争でもコロナ騒動でも皆そうだが、勢いだけで始めることはできても、肚をくくる人がいないから終わらせることができないのがこの国の悲劇だ。本来は司馬史観の「坂の上の雲」の明治時代のように、自分が肚をくくってあるべき理想に向かって国を引っ張っていく官僚がいるべきなのだが、それがあったのは19世紀の間だけである。江戸時代の武士道精神で育った士族が薩長藩閥政府の官僚となっていたからだ。

20世紀に入ると、文明開化で「追いつき追い越せ」のために明治以降の近代高等教育で欧米最先端の知識を詰め込まれた「秀才エリート」が官僚になるようになる。彼等は知識だけは持っているが、人の道を知らずにポジションに就いてしまった。彼等は自分が責任を取って自らのヴィジョンを実現してゆく真のリーダーシップなど持ち合わせていない。その典型的な姿は、無責任で戦略性のない日本型組織の代表である旧帝国軍隊であり、その構造的問題点は野中先生の名著「失敗の本質」で明解に分析されている。

なので、日本の官僚組織には真の意味でのリーダーはいない。リーダーには責任が発生してしまうため、率先してまとめ上げるリーダーや親分がいてはならないのだ。このため行動原理は細菌や単細胞動物のように単純になる。オイシイ話にはみんなが群がって集まり、ヤバくなると蜘蛛の子を散らすように逃げる。これがモチベーションの全て。霞が関の省庁は、内部ではすぐに派閥争いで覇権を争いたがるのに、他の官庁との利権や監督権の争いとなるとたちまち一致団結して外敵と戦いだすのはこのためだ。

これが功利的な秀才の行動原理である。それゆえ、官僚組織は鵺のようになり、何か問題が発生しても誰が責任者か全くわからないことになる。その一方でそれなりに悪賢く嗅覚だけは人一倍発達しているので、利権の匂いがするとみんな集まり、そこに秩序が生まれてしまう。何か戦略や指導があるように見えても、それは結果として生まれた秩序であって、決して意図されたものではない。一般国民からは極めて見えにくいが、ほとんどの官庁の行動様式はこれで理解できる。

ところが、これが成り立ったのは情報の非平衡性があった産業社会の時代ならではのものだ。かつて昭和以前の時代においては、霞が関の官僚は情報を誰よりも先に握れる強みがあったので、インサイダー取引よろしく、問題が世の中に知れ渡る前にこっそり逃げてしまえば責任を問われることはなかった。椅子取りゲームよろしく逃げ遅れた者が不幸にも人身御供になるだけである。

しかし、官僚組織は温かいので、一旦は人身御供にしてもちゃんと天下りの用意されていてそれなりに厚遇される。組織のために自ら犠牲となった恩人だから、組織はそれに報いるというヤツだ。組織のためにドロを被ったのだから、その後厚遇するというのは、ヤクザの組織でムショから出てくるとそれなりの待遇が用意されているのとうり二つである。これもまた、閉じた組織の中で利権を回し合うことで、社会一般から見えていなかったからできることだ。

しかし21世紀に入り、世の中は情報社会となった。だがこの行動様式がすっかり身についてしまい、情報社会への適応ができていないのだ。情報社会では情報の非平衡性は成り立たない。誰でも同じ情報にアクセスできてしまう。違うのはそこから何を読み取るかという力だ。しかし、秀才エリートには覚える力はあっても、情報から新たな価値を読み取る力はない。かくして、頭隠して尻隠さず。情報社会のリテラシーが高い人からすれば、官僚のごまかしなど一発で見破れてしまう。

情報社会では、秘密主義は無理なのだ。ウソを重ねれば重ねるほど、バレやすくなる。誤魔化そうとすればするほど、怪しさが増す。産業社会の時代なら通用したかもしれない屁理屈や言い訳は、必ずブーメランとなって帰ってくるのが情報社会なのだ。もう官僚は全く通用しないし、化けの皮も剥がれた。明治以来の日本の官僚制度・官僚組織自体が耐用年数を超えて風化してしまっている。いっそここいらで全部やめて新たなスキームを作った方が良い時が来ているのだ。



(23/01/13)

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