金の斧と銀の斧





インタラクティブメディアが普及してデジタルタトゥーの問題が頻繁に取り上げられるようになった。要は、アナログメディアの時代と違って、過去の行動や発言が記録として残り、アクセス・検索可能になっているというだけのことである。本人が過去の行動や発言に関する責任を放棄しようとするから問題が起きる。すなわちデジタルタトゥーでキズつく人は、大法螺吹きで嘘八百を垂れ流していることを示している。革新政党や「リベラル」有識者がよく嵌る「ブーメラン」も構造的に同じである。

ハッタリをカマしたがるタイプの人間は、口先三寸の出まかせでその場を乗り切るのが得意だ。それは口頭のトークには何も証拠が残らないからだ。しかしSNSにしろWebにしろ、インターネット上で一度言ったことは証拠が残る。情報社会の掟としての、この違いがわかっていないのだ。すなわち彼等は、リテラシーが不足して時代についていけない「情弱」ということである。それであるがゆえに意識的に勇み足をして、自らどんどん泥沼に嵌っているように見える。

過去においては、口頭の発言が記録に残らないのはもちろん、メディアで報道されたところで「人の噂も七十五日」。人々の記憶から薄れてしまえばミソギが終わって責任は霧散するとばかりに、過去の行動や発言に責任を持たない人が多かった。それをいいことにどうせ裏は取られないからと、その場限りの適当な言い訳で世渡りする人種は、少なからずいた。詐欺師のような犯罪者はもちろんだが、学識者や有識者、政治家や官僚などにもかなり多かった。

彼等の特徴は、自分の方が頭がいい秀才なので、世の中で多数を占める大衆は表面的につじつまを合わせた屁理屈で煙に巻けると思い込んでいる点だ。きちんと説明責任を果たそうとせず、難しそうな「ご高説」を唱えることでいくらでも凌げると思っていた。確かに高度成長期の「飢えた大衆」は、上昇志向が強く、見栄で背伸びをしがちだったので、「センセイ方」の上から目線の論調はその内容が吟味されることはなく、砂漠に水を撒くように受け入れられていった。

しかし彼等は上から目線の余り、大衆から自分達がどう見えているかがわからなくなってしまっていた。だからこそ、時代の変化に気付かず、いつの間にか情報社会へと変化した社会のトレンドから一人取り残されてしまっていた。そして今やすっかり「裸の王様」となってしまい、リテラシーのある大衆から揶揄される対象となった。これがデジタルタトゥーの本質である。これは、やはり上から目線の論調を押し付ける「新聞」が、21世紀の社会でその役割を失ってしまったのと軌を一にしている。

このように見てゆくと、デジタルタトゥーははインタラクティブメディアだからどうこうということではなく、そもそもそれ以前の問題であることがわかる。何のことはない、ウソでその場をやり過ごそうとしたことが間違っているのだ。最初のボタンを掛け違えているから、もうその時点でアウトだったのだ。しかし社会の情報化が進まず、送り手と受け手の情報の非対象性が大きかった産業社会の時代においては、それが大多数にバレにくかっただけのことである。

ある意味、最初からウソをついて悪いことをやっているのだから、それが天下に露わとなったからといって自業自得。そのウソをつき通してシラを切っていた方が大問題だったのだ。これは同じように秀才エリートの代表である高級官僚が、「バレなければヤリ得」とばかりに天下りなどお手盛りの利権を拡大しまくり、実質的に税金泥棒となっていても「頭隠して尻隠さず」のままバレないと思っているのと同じ構造だ。社会の情報化が進めば、容易に裏取りができてしまう。誤魔化すことはできないのだ。

もちろん、全て公明正大。正直な人間は何も恐れることはない。インタラクティブメディアは、そういう人の味方だ。フラット・アンド・オープンと古くから言われているが、まさに裏も表もなく誰もが全てを見渡せるのがインタラクティブな情報メディアの特徴である。だから情報社会では「裏」は作れない。そこでは全てが丸見えになることを前提に行動すれば何も問題はない。それでもなにも困らない人こそ、情報社会に適合した人間といえる。「裏」があるからいけないのだ。



(23/01/20)

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