政治家の劣化





本来政治家とは、生活に困らない篤志家が世の中のためなることをしようとしてなるものであった。ある意味持ち出しの社会貢献である。あるいは多額納税者が、納税した税金が妙な使われ方をしないように、ステークホールダーとしてその使途を監視するために議員になるというのも筋が通っている。いずれにしろ、きちんとした目的意識があって、それを実現するべく自己犠牲を払ってまで世の中のために尽くす人達である。

少なくとも20世紀に入って大衆社会化し、「誰もが一人一票」の普通選挙で議員が選ばれるようになるまでは、議会制をとっている国において議員になる人はそういうモチベーションを持っていた。それは欧米でもそうだし、日本においても「坂の上の雲」の司馬史観が通用した明治時代の憲政においては典型的に見ることができる。もちろん当時から質の悪い議員はいるにはいるが、それはあくまでも例外と考えられる存在であった。

このように、政治家とは高邁な理想を持ち、それを実現しようという「志」を持っている人でなくてはいけないのだ。しかし、日本国憲法の施行から70年。こと日本においては、そのような政治家は極めて少数になってしまった。今でも参議院の自民党山田太郎議員のように、自分の政治理念を信念を明確に持ち、それを世の中のために実現するべく政治家となった人もいる。地方議員の中には、本当に地元の振興・発展のために骨を折っている人もいる。

だが、そういう人が特別な例として目立ってしまうくらい、政治家全体のレベルダウンは激しい。「党議拘束の一票を入れる」以上の政治活動を行っていない議員も多い。これでは議会で討論を行う必要がないではないか。最初から各党の獲得票数をバックに、党首会談や国会対策委員長会談だけで落し所を決めてしまえばいい。その方が選挙費用にしろ、議会運営費用にしろ、無駄な支出を大胆に抑えることができ経費節減になるというものだ。

このように議会で使われる経費というのが、費用対効果的には巨大な無駄であるということは、逆に言えばそのバラ撒きの恩恵を受けている人がいるということである。議員としての活動を行っていなくても、議員としての歳費をはじめとしてオイシイ目に会えるわけだ。ここで現れてくるのが、今は食って行くために生業として議員になる人達である。こういう輩が議員のマジョリティーである。これは多すぎるんじゃないか。

特に野党に典型的に見られる。もちろん与党にも問題議員はいるが、無責任でいられる分こういう人達は野党のほうにより親和性が高い。政治意識があるから議員をやっているのではなく、議員であり続けることが目的になっているだけに、比例等での救われる可能性が高い野党第一党に野合する。そこには政見も政策もなにもない。自分のことしか考えていないのだ。ある意味政権交代した民主党以降の野党第一党は、こういう有象無象の集合だからマトモな政治ができないのだ。

さらに「生業」であるがゆえに、議員という立場を利用して利権構造の中心に入り込めれば、さらにおいしい思いをができるので、こういう話にはすぐに食いついてくる。このあたりを見抜かれて、バラ撒き利権を作って子飼いの組織に天下りの椅子を確保したい官僚と、天下りを受け入れる代わりにバラ撒きの恩恵にあずかって補助金をチューチュー吸いたい連中にあっさり取り込まれがちである。かつてのエセ同和も野党のお墨付きがあったが、金に弱いこういう野党議員は公費を吸い取るスキームの中心人物となることが一番おいしいということになる。

このようなプロセスを経て、野党議員は腐り切ってしまった。個人的には、清廉潔白な野党・リベラル・社会主義者は、健全なバランスの取れた社会のためには必要な存在だと思う。マジョリティーにはなれないが、一定の層の意見の代表としては存在意義がある。しかし、そのためにはなにより、与党以上に高邁なヴィジョンや政治理念を持っていなくてはいけない。それがないから、ゴネ得でバラ撒きを期待するだけになっているのだ。とはいえ、それは55年体制の日本社会党以来の伝統でもある。誰か、真の意味の清い野党を作ってはくれないものか。



(23/01/27)

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