官僚に価値観なし





官僚に価値観なし。彼らを動かしているのはただ利権を作りだせるかどうかのみ。この事実は霞ヶ関と仕事をしたことがある人や、同窓生や知り合いに高級官僚が多い人の間では常識である。少なくとも昭和に入ってからの100年近く、日本の官僚機構はこの原則に従って動いてきたからだ。とはいえ敵もさるもの。それなりにずる賢いだけに、一般の人には中々その事実がバレないように注意深く偽装して仕事を行っている。

それが「天下国家のため」というお題目だ。それであっさり騙されてちゃんと仕事をしているのだろうと思ってしまう人も多いと思うが、それはみごとにヤツラの術中にハマっているだけである。「天下国家のため」とか「日本の百年の計」というのはあくまでもタテマエであり、それを錦の御旗にして予算を分捕り、そこから自分達の利権を用意周到に組みたてようとするのが高級官僚の真のモチベーションである。

その方程式は、タテマエの目的を実現する「世のため」の公益法人や企業を作り、そこに補助金や公共事業の資金として税金を投入する。そしてそこに天下りの椅子を設けて、お手盛りで民間ではありえないような厚遇を実現するというものである。官僚機構の中では出世できなくても、この「オイシイ椅子」にありつければ人生は成功、高級官僚になった甲斐があるということになる。そしてこういうスキームをウマく作った人が次官にまで出世するのだ。

この方程式の問題点は、税金ではなく米国のように公益的な事業への直接的な寄附を奨励して、寄附した分だけ減税になるシステムと比べれば理解しやすい。ある企業が社会事業に1000万円寄附したとしよう。これでその企業は1000万円減税になる。そして、その1000万円が丸々社会事業に使えることになる。その一方で税金として徴収した中から補助金として支出する場合はどうだろうか。まず財務省のところで一般の税収として上前が刎ねられる。

どんなに少なく見積もっても、ここで半分以上が取られてしまう。半分としても社会事業に支出できるのは500万円だ。この500万円が満額公益法人に支出されたとしても、今度は公益法人の天下り官僚の取り分が刎ねられる。これも少なく見積もって半分以上だ。ということは、事業には最も有効に使われた場合でも250万円にしかならないことになる。実際にはもっともっと「上納金」の方が多い。さらにColabo問題のように、その先の団体も官僚とグルになっていることさえある。

ただ大いに勘違いしたまま、本当に世の中のことを考えて身を粉にして働いているまじめな官僚もいないわけではない。彼等はそれなりにがんばっているとは思うし、それによって救われている人も多いと思うのだが、所詮は霞ヶ関の中ではマイノリティー。ズル賢い連中から「やってます感」を出すために、人身御供として飼われているに過ぎない。彼等は絶対に出世はできない。とはいえ、彼等にもそれなりにオイシイ天下りの椅子が用意されていてそこにハマってしまうのだから同罪だ。

昨今は「クールジャパン」だ「インバウンド」だ「デジタル化」だなどと、バズワードに乗っかって予算を取るパターンが横行している。しかしその先は何一つ変わっていない。要は、対財務省の交渉における方便に過ぎない。予算が取れたらそのバラ撒きで公益法人を作り、天下りの椅子を増やす。これだけがモチベーションだ。政策官庁であればこのスキームで次々とオイシイ利権を作れるし、それを増やした人が出世して次官となり頂点を極める。

しかし、そもそもがバラ撒き官庁である、厚労省や文科省は異なる。既存のスキームでの許認可バラ撒きには絶大な利権があるが、新たなスキームでバラ撒きのための法人や天下りの椅子を作ることがかなり難しいのだ。そこで、既存の法人に対して新たな補助金を起こし、それを背景に天下りの利権を作ることになる。昨今問題になっている村木元次官のナニカグループでの絶大な権限も、この官僚の基本的な行動様式がわかっているとスッキリ肚落ちする。この事件こそ、霞ヶ関の根源的かつ構造的な問題に根差しているのだ。



(23/02/03)

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