反対のための反対





議論の場においては、ある意見に対して賛成の論陣を張ることは非常に難しい。周りから難クセを付けられないためには、きちんとした論拠に立って、筋道だった論旨を展開する必要がある。世の賛成意見によく見られる「好き嫌い」や「お気持ち」では、正当性を補強する意見にはならない。それなら、単に黙って賛成票を投じる方がいい。きちんとしたディベートをやる時でも、賛成意見を述べることは最も難しいのだ。

一方、反対や批判は容易である。なにかネガティブなことを言えば済むし、それが本当かどうかは元の意見を出した側が証明しなくてはならなくなるので、きわめて無責任で済む。数学等ロジカルな体系においても、「反証」は一つでも実在する事例を挙げれば済むが、「証明」はきちんとした論理構築が求められる。おまけに、無責任で根拠の無い反対意見であっても、それが荒唐無稽であることの証明は批判された側の責任となる。

要は「ガン付け」「いちゃもん」をしていれば、それなりに相手が濡れ衣を証明する必要が生まれる。ゴネ得を狙って反対のための反対を行ってきた55年体制下の「野党」は、このイージーな「文句」だけで半世紀以上世を渡ってきたゆえ、論理的にモノを考える機能を失ってしまった。売り言葉に買い言葉で、相手の語尾に反応してカラむことは何より上手だが、自分の意見を持ち、それを論理的に説明する力は全く退化した。

昔、暴対法とかが無く、ヤクザも「必要悪」として存在できた昭和の時代においては、新入りのヤクザはテレビの番組を見ながら出演者の一言一言にガン付けをし、いちゃもんを付ける練習をしたという。まあ、そのくらい反対して文句を言うのはやろうと思えば簡単なのだ。それだけに「反対のための反対」は麻薬のような常習性があるといえる。「野党」「革新政党」「左翼政党」およびその政治家はこの禁断症状に取り付かれているのだ。

まあオナニーで済んでいる分、それ以前の昭和20年代の左翼政党が取っていた「暴力革命路線」よりはまだマシかもしれない。とはいえその「暴力革命路線」も、冷戦下の勢力拡大を狙う東側コミンテルンと、共産勢力を過激化させて社会から引き離そうとするCIAのそれぞれ工作資金を喰いっぷちにしてはじめて採ることができたんだから、ある種「バラ撒き依存症」というところは一貫しているということもできるだろう。

まさに昨今大きな問題となっている「colabo問題」に始まる「若年被害女性支援事業」をめぐる公金の無節操なバラ撒きも、その中心的プレーヤーが共産党や立憲民主党など筋金入りの左翼政党と組んでいることからもわかるように、ある種確信犯として「反対のための反対」のゴネ得で補助金を引っ張り出しているものである。55年体制下の野党というのは、基本的にこの「公金を引っ張り出す」機能しか果たしていなかった。

その典型は「エセ同和」の手口である。京都市などが無法自治体として知られていたが、同一人物が部落解放同盟の支部長と山口組傘下の暴力団組長の2枚の名刺を持って市役所を訪れ、京都市をカツアゲする。すると補助金がスルスルと出てくる。役所の側も街宣車とかが来られるくらいなら金で解決した方が良いとばかりに、バラ撒き用の各種補助金システムを事前に用意しておく。これと全く同じである。

旧社会党系と共産党系の同和運動は、オルグして勢力を広げるというところでは対立していたが、地方公共団体をユスっておいしい汁を吸うというところでは全く共闘していた。野党でもしっかりした政治理念を持つ政治家はいるとは思うが、この手の利権に吸い付くことだけを考えている人達をかなりの頻度で囲い込んでいるのが問題だ。確かに、こういう「活動家」は宗教団体を同じで、選挙戦の時に強い味方になってくれるので、利権の分け前だけでなく、政治活動の面でもメリットはある。

確かに右肩上がりの高度成長がベースだったバブルまでの昭和の時代なら、金で解決するこのやり方が成り立ったかもしれない。しかし、社会・経済の構造が大きく変化した情報社会の21世紀に通用するスキームではない。この構造にメスが入れられない限り、21世紀の日本社会は来ないともいえる。しかし、思わぬところで一気に変化が起こる気配が感じられる。そもそもAI時代の21世紀には、秀才エリートの官僚は必要ない人間なのだ。首を洗って待っておれ。



(23/02/10)

(c)2023 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる