理解を妨げるもの





人は自分を規範として相手を考えがちである。相手も自分と同じような発想をしていることをベースとして、相手の意見を聞いたり行動を見たりする。しかし元来人間は百人百様。結果としては似た意見や行動を取っていても、その動機付けは全く異なることが多い。ましてや、自分と対立する意見の持ち主の発想を理解できる人は限られてくる。人間関係の問題の多くは、この「他人をあるがままに理解することができない」ことに起因している。

つまり、自分と相手を相対化して客観的に捉えるのは難しいのだ。誰もがビジネスや商売で成功するわけではないのは、この「相手を相対的に見る」ことができないことに由来する。ある意味、マーケティングの極意は「相手の気持ちになって考える」ことである。お客さんは自分とは異なる人格である。マニアックな商売ならいざ知らず、お客さんの気持ちを自分の気持ち延長上で見たのでは、外してしまうことの方が多い。

世の中マーケティングで「アテて」ヒットを生み出すのはかなり難しい。ヒットを生み出しても「一発屋」で終わってしまう事例も多い。その一方でしっかりお客さんの心をわしづかみにしてヒットを連発し、高い価値をキープしているブランドもある。このようにヒットに落差が激しいのは、このマーケティングの基本の基本である「相手の気持ちになって考える」ことが実は難しく、それを実践できる人は限られてしまう。

「相手の気持ちがわかるかどうか」はスペクトラム的な分布になっているため、それが得意な人から苦手な人までいろいろな人が存在する。その中でも、他人も「同じ穴の狢」としてしか見られない人達がいる。それは一つの価値軸に基づく「yes or no」の二元論でしか世界を捉えられない人だ。自分と違う「敵」も、自分と同じ二元論で世界を捉えていると見る。その二元論の中で自分はと相手は信じているものが真反対と捉えるのだ。

この最たるものが、全体主義・権威主義的な「一つの正義」しか認めない人達である。一神教の信者が代表的だ。彼等は相手も「違う正義」を掲げる一神教の信者として捉える。だから、すぐに原理主義の宗教戦争になってしまう。宗教戦争も一神教同士だから起こる。イスラムは商人の宗教だったので異教徒にも比較的寛容だったのが、キリスト教側が十字軍を中東に送り一神教同士の正当性を争う原理闘争にしたからこそ、ジハードとして返り打つことにより宗教戦争になった。

万物に八百万の神が宿ると信じる日本人には、「宗教戦争の大義」が理解できないのもこのせいである。日本にも差別やイジメはあるが、「村八分」であって相手の命まで奪おうとはならないのはそのせいであろう。他人を同類視するのは陰謀論者も同じである。陰謀論者は自分が陰謀を謀りたいと思っている。だから不幸にもそれができないのは、他の人のより強力な陰謀に嵌められたせいだと思ってしまうのだ。。

このような人達は、一生かかっても「世の中には多様な価値観が存在する」ことを理解できないし、それを認め合える社会を築きうることも理解できない。三次元の世界の凡人が四次元空間をイメージできないのと同じように(前に述べたように、一部の数学者はこれがイメージできる)、一軸の価値観に凝り固まった人は、そもそも多軸の価値観が存在する世界をイメージできないのだ。これではコミュニケーションが成り立つわけがない。

結局、人と人との間の理解を妨げているのは、「一神教原理論者」の存在ということになる。産業革命以降の産業社会においては、世の中での「対立」とはイデオロギー的な思想信条の対立を意味した。しかし21世紀の情報社会においては構造が変化する。人々の対立の本質は各論たる主義主張でなく、「一神教」対「価値観の多様性」という対立になる。これが世の中で最も根深い対立の根幹となる。すでに大きい政府対小さい政府とか、全体主義対自由主義とか、その兆候はいろいろなところで表れている。未来を建設的なものにするためには、それをどういう視点から捉えるかが問われているのだ。



(23/02/17)

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