もう一度「弱者」を考える





マイノリティーであることにより、それなりに社会的立場が厳しいモノとなってしまうのは事実である。しかし「弱者」であることと社会的立場が厳しいこととは、本来違う軸の問題であり、まとめて一つの軸で考えることはできない。それはマイノリティーの中でも社会的に成功している人はたくさんいる(たとえば音楽のアーティストを見ても世界的なトップスーパースターのスティービー・ワンダーは視覚障碍者だし、エルトン・ジョンはゲイである)ことを見れば容易に想像できる。

一方で、偏差値の高い大学を優秀な成績で卒業して有名な大企業に入っても、その後結局うだつが上がらず、人生としては弱い立場の窓際族になってしまった人も、商社とか昭和の経済を支えた家電やクルマ、精密機器などのトップメーカーには多かった。勉強ができても人間としては凡庸という人は掃いて捨てるほどいる。要は「弱者」とは、属性の問題ではなく才能がない凡人であることであり、マジョリティー、マイノリティー問わず存在する問題である。

その一方で、マイノリティーが社会的に不利な立場に置かれることが多いことも確かだ。しかし、マイノリティーと不利な立場は同値ではないし、相関関係にあるわけでもない。確かにあからさまにマイノリティーであるがゆえに機会の平等を奪われることもある。かつてはそのような差別が公然と行われていた。これは是正しなくてはならないが、そのような時代であっても能力のある人材は、そのような壁を乗り越えて自分なりの成功を実現させていることが多い。

たとえばアメリカにおいて黒人はマイノリティーとして陰に陽に差別され、就職のチャンスを奪われてきた時代が長かったが、音楽やスポーツなど実力で勝負できる世界では古くから成功者がいた。同様に、白人の中でも非WASPは、長らく社会のエスタブリッシュメントになることは難しかったが、イタリア系やユダヤ系はそれぞれアウトローやエンタメ界で活躍し、それぞれの世界でのトップを仕切る人材を出している。

もちろんマフィアになったイタリア系移民でも、単なる「鉄砲玉」で短い一生を終えてしまったボンクラもいただろう。それは能力の違いである。マジョリティーの中にも優秀な人材と凡庸な人材がいるし、マイノリティーの中にも優秀な人材と凡庸な人材がいる。才気や能力が乏しく、成功に近付けない人こそ「弱者」である。マイノリティーの中の「弱者」を全ての基準にするから、このあたりの見立てが歪んでくるのだ。

この二つは軸が違う以上、別に考えなければいけない問題だ。別に考えなくては、真の解決は不可能である。これを切り分けることで、差別をなくすことは「機会の平等」を貫徹することであって、「結果の平等」を強制することではないことが明確になる。マイノリティーも尊厳を持って尊重される社会を実現するためには、価値観の多様性を認めることが最も重要だ。一神教的な善悪二元論を捨て、八百万の神が共存できる環境を実現することがなによりだ。

その一方で「弱者」の救済とは社会的なセーフティーネットの充実の問題である。弱者とはすなわち、日本国憲法第25条第1項に規定されたように「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」のだが、いろいろなボトルネックからそれを享受・実践で来ていない人である。これは人間としての尊厳に関わる重要な問題であり、そのボトルネックを解消すべく社会がバックアップする必要がある。とはいうものの、その実現は公的支援だけでばなく、米国のように慈善活動への寄附により実現することも可能だ。

このようにその軸が異なる二つの問題を敢えて混同することで、利権を作ってきた人たちがいる。たとえば「エセ同和」などが典型的だ。差別があるからこそ、それをダシにして補助金のバラ撒きや税金の減免にありつける。差別がなくなってしまっては折角の利権が消えてしまう。だから本来の解放運動の目的であるべき「差別のない多様な価値観の社会を作る」のではなく、差別を温存することで利権の永久機関を作りだそうとしていた。

また「エセフェミ」のように、この二軸混同を盾にして、正面から権力奪取を狙う人達も現れた。人間には弱者も強者もなく、誰もが全て対等と考え男女平等を目指すのが本来のフェミニズムである。そういう考え方に基づいて地道に活動している人達もいる。しかし、一部の人達は「女尊男卑」の社会を目指す運動を始めてしまった。これでは一神教的な善悪二元論に基づくゴリゴリの権力主義者であり差別主義者だ。

ましてや今や情報社会の21世紀、AIの時代だ。AIは「コンピュータの上に人を作り、コンピュータの下に人を作る」ものである。その対象はマジョリティー・マイノリティーとは関係ない。そういう特性からいえば「弱者」は産業社会以上に大量に発生することになる。そうであっても人権は対等に認められるべきものであるから、それにたいしてキチンと落とし前をつけられる社会システムが必要になる。そのためにこそ、マイノリティーと弱者を別の軸としてきちんと捉えることが求められている。



(23/02/24)

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