「地頭」の良さ





21世紀に入って20年以上が経ち、社会の情報化が現実の問題となってくると、「勉強ができる」ことより「地頭がいい」ことの方が重要視されるようになってきた。これは良い傾向だが、果たして「地頭の良さ」とはどういうことなのだろうか。これが意外と理解されていない。というより、違いは分かってもその中身、すなわちどこがどう違うのかはそれこそ「地頭がいい」人でないと理解できないものなのだ。

いわゆる「頭がいい」「勉強ができる」人と、「地頭がいい」人の間には、どうやっても超えることのできない深くて広い谷がある。というよりは、全く別の世界の生き物だといった方がいいだろう。目に見えたモノしか理解できない人は、三次元の空間は理解できても四次元の空間をイメージできないのと同じように、地頭の良さも「見えないモノを直感的にイメージできるかどうか」という違いだ。地頭の良い人はこれができるし、その能力が強みになっている。

そもそも発想や着眼点が違うのだ。たとえば、地頭の良い人は、一面のクローバーの中から四つ葉を探すのとか、日が並んでいる中から曰や臼を見つけるのとかは非常に得意だ。どういう風に目を着けるのかというと、生真面目に端からシーケンシャルにサーチするのではない。俯瞰的に全体を見渡して、その中で違和感のある部分を見つけ、そこを重点的に検証するのだ。違和感の原因は、四つ葉や曰や臼なので、その周辺さえチェックすればすぐに見つけることができる。

しかし、この「違和感を感じられる」というセンスは、まさに生まれながらの才能の問題だ。これこそ「地頭の良さ」の本質である。先に結論を直感で見つけ、そこへの最短プロセスを構築することで解を出す。このように物事をステップ・バイ・ステップで演繹的に考えないのが特徴だ。「バックキャスティング的なモノの見方」が基本になっているというべきだろうか。これができるかどうかが「地頭の良さ」である。

そういう能力であるからこそ、理屈では説明できないし理解し難いものになる。だからこそ「地頭が良くない」人、つまり努力と勉強だけで積み重ねてきた秀才からは、いったい何をやっているのか、どうやったらそうできるのか皆目見当がつかない。こここそが「越えられない壁」である。つまりヒラメキでやっていることを理解するのは、過去の知識の蓄積からものを考えている間は不可能ということである。そして、それしかできない人には永遠に理解できない。

さて、すでに何度も述べてきたように、勉強と努力で何とかなることであればAIは圧倒的に強い。大学入試の正解を出すのであれば、過去30年間ぐらいの全大学の入試の問題とその正解をAIシステムに食わせれば、容易に実現できる。しかも入試は「正解がある」という、AIシステムとしては比較的学習が容易なジャンルである。よく「著者にもこたえられない国語の問題」が話題になるが、入試が「入試的な正解」を求めるものである以上、人間は絶対的にAIには勝てないといっていい。

チェックリストに照らし合わせて一つづつ照合していくようなやり方で対応できるものに関しては、AIには絶対的に勝てないのだ。それで高得点を取るような人材なら、AIシステムを使った方がずっとコスパがいい。求められる人材が変われば入試も変わることとなり、今度はAI対棋士の将棋と同じで、AIでは解きづらい問題を作るようになるであろう。言い換えれば「努力と勉強ではどうやっても高得点を取れない入試」になるのだ。

そうなれば、おのずと「努力と勉強」は社会的に重視されなくなることは間違いない。これは大変いいことだ。「努力と勉強」の重視というのは、産業社会の「追いつけ追い越せ」という科学や技術の急速な進歩にどうやってキャッチアップするかという目的のために生まれた価値観である。日本の不幸は、21世紀になり情報社会となっても、この世界のスキームから抜け出せない点にあるが、ついにここにもメスが入ることになるだろう。

卵と鶏ではないが、人間社会というのは実は変化に対して合理的にできている。長い目で見れば変化に抗することはできず、それを受け入れてこそ生きてゆけるのだ。AIを使いこなせるのは、地頭のいい人間だけである。産業社会において「努力と勉強」だけでなんとか居場所を作ってきた「秀才」は、今度はコンピュータシステムに使われる立場になる。これを受け入れることが、未来への人類の発展・進化のためには重要なのだ。



(23/03/03)

(c)2023 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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