AIの使い方





昨今のAI技術の進歩は迅速で、いろいろな業務においてかなり高度なレベルで使用しうるものとなってきた。それだけに「仕事がなくなってしまうのでないか」とか、「どのようにすれば使いこなせるのか」とか、必要以上に不安視・危険視している人も見受けられる。しかしAIというのは、いわば「ものスゴく勉強が得意な秀才君」と考えればいい。そういう秀才エリートをどうやって使いこなすのかというのと同じである。

これはコンサルや士業の使い方に似ている。自分がキチンとヴィジョンとやりたいことを明確にイメージしていて、それを実現するためのブレークスルーを見つけさせるのであれば、極めて役に立つ。その一方で一番危険なのは彼らに「モノを考えてもらう」ことである。彼らは当事者ではないので、極めて無責任に結論を出しがちである。こういう秀才エリートの典型である官僚の所作を見てみればその問題はすぐわかるだろう。

これと同じことである。使う側がきちんとした問題意識を持っていて、なにがしかのヴィジョンや仮説をすでに持っているのであれば、AIはそれを立証したり、その正当性のエヴィデンスを示したりしてくれる。AIシステムはどんな秀才君よりも知識を持っているし、結論を出すのも速い。そしてコストもかからない。要は産業社会における「秀才エリート」を置き換えればいいのだ。これが人間とコンピュータの間の「正しい」役割分担である。

しかし、そもそも世の中には問題意識もヴィジョンも仮説も持っていない人が多い。「ビジネスノウハウ本」が売れたり、狼少年なだけのワイドショーの論説が社会的影響を持ったりする以上、そっちの方が圧倒的に過半数ともいえる。問題はこちらのほうだ。特に日本においては「日本的経営」の終身雇用・年功序列型システムが長年機能していたので、このタイプの「空っぽ人間」も社歴が長いというだけでマネジャーに登用されたりする。果ては社長になってしまったりもする。

そういう人達は、自分で物が考えられない以上、他人に教わったり知恵を出してもらったりして生きている。自分は何も生み出さず、ただただ他人の受け売りで乗り切っているのだ。当然、彼等はAIが登場すれば、AIからも答えを貰おうというスタンスになる。しかし、知恵を出してもらおうと頼った瞬間に、自分はAI以下の存在になってしまう。日本の企業がコンサルや士業を使いきれていないのは、こういうタイプがトップの企業がかなり多いからである。

経営者がコンサルや士業に知恵を求めるべきは、自分の考えた戦略がコンプライアンス的に合法なのか、税制上問題はないのか、もし問題があるとすればどこをどうすればボトルネックをクリアできるのかといった、具体的なブレイクスルーの提案である。あくまで経営者としてやりたいヴィジョンがあって、それを実現するために如何したらいいかを、その道のプロに聞くわけだ。これがトップマネジメントと外部の専門家スタッフとの正しい役割分担である。

これはコンピュータシステムの活用でも同じである。コンピュータシステムで検証はできても、答そのものを出すことはできない。そしていかに機能が進んだとはいえ、AIであってもコンピュータシステムである以上、その極意は変わらない。古くから「ガベージイン・ガベージアウト」などと言われてきたように、コンピュータシステムとは使う側の意識や力量が常に問われるものなのだ。

答えの判別は任せても、そもそもの問題は自分が考え出さなくては意味がない。問題が作れれば何とかなるというのは百歩譲った考え方であり、本当は自分としての答えもそれなりにイメージしている必要がある。いずれにしろそのような問題意識を持っていないと、答えが出てからどうするかがわからないからだ。ビジネスなどでは、答えを知っているだけでは意味がなく、それをどう実践するかの方に成功のカギがある。

責任を取って、肚をくくって、決断する。トップやリーダーの仕事は、突き詰めて言えばこれだけだ。これがきちんとできている人なら、配下や外部のスタッフに指示を出すのと同じように、AIに指示すればなにも問題がない。その一方で、この「リーダーの条件」ができでいない人は、そもそも人の上に立って指示する資格がない。AIの導入がもたらす変化はここにある。そしてこれこそ、「コンピュータはコンピュータの上に人を作り、コンピュータの下に人を作る」典型的な現象なのだ。



(23/03/10)

(c)2023 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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