ポスト工業社会のナレッジ






いまごろになって、けっこう「ナレッジマネジメント」がブームになっている。なんだか「強い組織を造る打出の小槌」とでもいうような受け止められ方さえしている昨今だが、もちろんもともとはそういう話ではない。この理論の創始者である野中先生は、もともと軍隊組織の研究から組織論の権威となった。ナレッジマネジメントのルーツは、同じ兵器を持ち、同じ頭数を揃えたとしても、部隊の強さに差がでてしまうのはなぜか。それを防ぐにはどうしたらいいかというところにあった。こういう面では、米軍の均質的な強さが群を抜いている。その秘密はどこにあるかというところから研究がはじまった。

ミリタリーマニアならじゅうじゅう承知だが、アメリカ軍の兵士の訓練用のマニュアルというのは、ある意味でスゴい。英語が読めなくても、並以下の理解力しかなくても、作戦遂行には申し分ない兵士に仕上げてしまうことを目的に、実に合理的に作られている。これこそが「形式知の共有」だ。組織の目的がはっきりしていれば、その目的に対して個々の構成員が果たすべき役割もはっきりしている。これを徹底的に押し進めれば、目的にオプティマイズし、最強の組織ができ上がるという次第だ。これは、正規軍同士の総力戦だった第二次世界大戦において、枢軸国相手に最高のパフォーマンスを発揮した。

この方法論は、目的への組織のオプティマイズという視点では、軍隊のみならずあらゆる人間組織に応用が利く。特に、20世紀にその頂点を迎えた工業社会においては、企業組織はきわめて目的合理的な組織として存在した。当然、企業組織のパフォーマンスも、この軍隊の強さの差と同じ原理で強化できる。これが組織論・経営論としてのナレッジマネジメントがもてはやされるようになった理由だ。工業社会的組織においては、パフォーマンスの良い組織は、必ず目的の明確化とそのための形式知の共有がその背景にある。これらの例は、高度成長期の日本を支えた企業にしろ、90年代に復活した強いアメリカ経済を支えた企業にしろ、成功の陰に必ずある。

こういう組織においては、表面的なお題目はさておき、根源的な企業目的は明確だ。売上をあげ、利益を上げること。そのためには人間は部品でしかない。どう美化したところで、工業社会である以上、この原理からは逃れられない。いや、この原理をいかにスマートに貫くかが、20世紀的なナレッジマネジメントの目的だったといってもいいだろう。それは言い換えれば、誰でも努力すれば、それなりに報われる組織や社会だったといえる。そういう意味で、工業社会は秀才型社会だったということができる。後天的な努力や貢献に、そのヒトの存在意義を求めることができた。

それは、あくまでも目的は明白になっており、それをいかに最短経路で実現するか、
いかにコストを減らして実現するかの勝負だったからだ。そのためには、個々の構成メンバーが果たすべき役割とその実現方法を明確化し、それを的確に実施できること。外的要因が変化したときにも、即時かつ自律的に新たな環境に対する最適化を実現できることが必要とされた。これはまさにシステムの問題であり、構成メンバーからすれば、システム維持に必要な知識の形式知化と、その共有のための教育の問題である。

だからこういう時代は、システムに頼れば喰っていけた。そして、システムは基本的に人間系で構築するものであり、マシンはあくまでもそのサポートに過ぎなかった。だからシステムの人格化である「企業」にすがっていれば活きていけたわけだし、そのための偏差値であり、お受験だったわけだ。しかし情報テクノロジーの発展は、明確な目的へのオプティマイズであれば、マシンをメインにしたシステムで充分実現できるようになった。システムは人間は基本的に必要としないし、コスト要因として過剰な人間の関与は排除されるべきものとさえなった。

その意味では近代がぐらつきはじめるきっかけとなったベトナム戦争では、アメリカ軍型のオプティマイズは役に立たなかったことは象徴的だ。ゲリラ戦では常に、兵士は一対一、個対個の状況にある。組織やシステムは無力であり、面と向かっている兵士同士の能力や士気を掛け合わせた「総合力」の大小だけの問題となる。その一方で湾岸戦争以降、国と国との総力戦は、人間システムとしての部隊の対戦ではなく、マシンシステム同士の対戦にかわってきている。企業というオプティマイズ・システムが、ホワイトカラーの人的システムからコンピュータネットワークのマシンシステムに変わったように、軍隊もまた兵器をネットワークするマシンシステムに変わった。このような時代ではナレッジマネジメントもその意味を変えざるを得ない。

ポスト工業社会は、コンピュータネットワークに支えられた情報社会でもあるが、その構成メンバーとしての人間の関わりからいえば、知的付加価値型社会といえる。それこそ慧眼にも19世紀にマルクスが示唆した、肉体的付加価値型社会としての近代工業社会とは、ヒトと社会の関わりが全く変わっているのだ。このような社会では、ヒトや組織の存在目的がアプリオリに与えられるわけではない。ということは、それを創り出さなくてはアイデンティティーが得られない。だから知的付加価値の創造が求められる。しかしそれは努力の問題では解決しない。その答を出せるのは、天才のヒラメキだけだからだ。

したがってこれからの知的付加価値型社会では、知的付加価値生産ができる天才と、できない秀才との間には、埋め難い階級差が生じる。これはいかんともしがたい。古代においては、シャーマン的な才能を持つ人間が特別な階級となっていたのと同じく、これは人間社会としての歴史的使命なのだ。しかし、だからといってその存在の重み自体に階級差ができるわけではない。天才と言えども、アイディアや知恵はあふれてくるが、自らそれを全て実現することは不可能だ。周辺で手助けしてくれるヒトがいてこそ、付加価値は実現する。その構造が不可避である以上、社会的構造自体がなくなるわけではない。

そして、この両者の役割分担こそが、21世紀型のナレッジマネジメントといえる。知恵を出せるヒトの知恵を、どれだけ大事にし、知恵が出せないヒトの間でいかに共有し、具体的な成果をより多く出せるか。この両者の間では、生み出している価値が大きく異なるのだから、その待遇も違わざるを得ない。しかし、天才の生み出した知恵を効率よく実現するためには、その知恵をより多くのヒトが共有し、実現のプロセスに移してゆくことがカギとなる。一見それは全く新しいパラダイムのようにみえる。しかし社会一般ではなく、領域を限ってみれば、そういうプロセスは決して珍しいものではない。

たとえば、すでに映画や音楽といったソフトビジネスの領域では、かなり前からこういうプロセスは常識だ。クインシー・ジョーンズのアイディアをアルバムに作り上げる過程。スピルバーグのアイディアを映像に作り上げる過程。これらはまさに一人の天才のアイディアを、多くの秀才が協力してまとめあげてゆく過程ととらえることができる。今起こりつつある変化も、単に世の中のすべてのプロセスが、そういうソフトコンテンツ型になるだけのこと。そういう意味では、かつてポスト工業社会が経済のソフト化といわれたのは、まんざら外れでもなかったということもできるだろう。


(00/02/11)

(c)2000 FUJII Yoshihiko


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