昭和の勘違い





「戦後」は戦時中よりも経済が破綻し、かつてないほど日本は困窮していた。GHQは自らの政策への批判を防ぐべく、戦後の経済混乱に関する情報を伝えず、日本を自由で民主主義的な国に解放したことばかり主張していた「伝統」が残っているので、今でも正しく「戦後」を理解している人は少ないのだが、昭和31年の経済白書の名言「もはや戦後ではない」は、戦前のピークのGDPをクリアし経済の混乱を抜け出した喜びの言葉として記録されたものだ。

さて、その朝鮮戦争特需から高度成長をもたらした鍵が、「横並び、護送船団方式」のお上からの予算配分だ。本当に金がなかった時期、なけなしの資金を無駄に使わず、一番経済成長に役立つ産業セクタに投入する。政策というものは、それぞれの時期ならではなの環境や与件に応じて変わるし、そういう変数に対して最適解を出すべきものである。そういう意味では、日本経済が復興した以上、その時期においてはその手法は適切であったというべきであろう。

しかし問題はその後である。Japan as No1となったバブル期に向かう80年代。確かにグローバル企業となった日本企業もあった。しかし、旧来の「安くてコスパがいい、Made in Japan」のままで輸出中心で売上だけを確保してきたメーカーが多過ぎた。それでも意外と売り上げも上がっていた。実は「最後の途上国企業」だったのだが、先進のグローバル企業になったという思い込みが生まれた。ここに危険な勘違いが発生してしまったのだ。

本来、競争力が無く市場から淘汰されるべきの企業や人材も、のほほんと生き残ってしまっていたのが、バブル期の日本の産業界である。バブルに向かう好景気を利用して積極的に新規投資を行い、企業体質を改善すれば、世界に通用する企業へと生まれ変わる良いチャンスであった。実際、その後もグローバルに生き残っている日本のメーカーは、この時期に体質改善を行っていた。だからこそ生き残ることができたのである。

かつての花形輸出産業だった自動車メーカーでも、日系と呼べるのはトヨタとホンダだけになってしまった。家電メーカーも、事実上パナソニックとソニーしかない。これらの企業は確かに80年代に企業の基盤を強化したからこそ、その後に生き残るだけの経営体力とブランド力を身に付けることができたのだ。景気のよさに身を任せたまま、追い風で売上規模が拡大するだけで満足していたメーカーは、皆市場で生き残ることができなかった。

まさに高度成長期の日本企業の「日本的経営」には、目先の売上を拡大する営業戦術や生産戦術はあっても、中長期的視点から自社のあるべき姿や目指すべき方向を明確化し、そこに向かってリーダーシップを執る「経営戦略」が欠如していた。現場監督たるCOOはいても、企業を引っ張ってゆくCEOのいる企業は少なかった。そして多くの企業において、経営とはそういうものなのだという大きな勘違いが修正されることはなかった。

それらの企業は高度成長をいいことに、企業内での生産や運営の質的な高度化を行わず、ひたすら頭数を増して売上を増やすという「人海戦術」でやっていた。しかしそれは20世紀半ばまでの産業社会だからこそのスキームであり、グローバルレベルではすでに80年代にはあり得ない経営であった。マニュファクチャ経営とでも呼ぼうか、多くの企業はすでに大時代的で時代についていけない体質だったにもかかわらず、右肩上がりの追い風に浸りきっていたのだ。

バブル崩壊以降、失われた十年、二十年、三十年といわれるが、それは違う。遅れてきた高度成長のバブル期が異常なのであって、競争力のない企業に、正しくイエローカード、レッドカードが出されるようになっただけだ。物理的にモノを作るだけで、マーケティング力、経営力のない企業は、外資に買われて製造子会社となった。そもそも存在意義のない会社は、倒産し、解体された。これが正しい姿である。昭和という時代が、「一億総勘違い」だったのだ。



(23/03/24)

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