「中の上」と「上の下」





今まで何度も述べてきたように、情報社会においては「ひらめき」が雌雄を決するカギとなる。これは産業社会においては「努力と勉強」が成功のカギだったのと好対照である。「努力と勉強」というのは後天的に学校等での教育によって伸ばすことができるものであり、もちろん生まれながら持っていた才能の違いもあるものの、ある程度の「底上げ」や「平準化」が可能であった。それに対し「ひらめき」は先天的な能力であり、磨くことはできても開発することは難しい。

産業社会においては長らく労働集約的な生産過程が多く、生産の増大とともに働く人の頭数も必要となった。このため、均質的にあるレベル以上の能力を持つ人材を大量に確保することが、生産における重要な課題となった。これに応えるべく近代教育システムとそれを実践する学校制度が生まれたわけである。決して「飛びぬけた人材」を生み出すためのシステムではなかった以上、そこから出てくる人材は均質的・平均的であることは自明である。

しかし今までの産業社会の時代においても、先天的に「ひらめき」の才能を持つ人材は存在したし、それゆえ「ひらめき」対「努力と勉強」という構図はそれなりにあった。芸術表現などの分野では、出てくる作品の違いからわかる人にはわかっていたが、多くの人にとっては見えない構図だったといった方がいいだろう。あるいは、凡人から見ると「ひらめき」が生み出した作品と「努力」の末に形になった作品は、どちらもスゴく見えて違いがわからないということでもある。

そこで、この違いが誰にも見えるようなカタチで分析してみたい。ここではまた「九品仏方式」を使用してたとえてみよう。九品仏方式だと、天才が「上品」、秀才が「中品」、凡才が「下品」である。それぞれの中にさらに「上生」「中生」「下生」があるワケだ。この9つのランクに能力を当てはめ、その対立の構図を見てゆこう。世の中いろいろ場面で、それぞれのランクにある人が「当たる」ことがある。その状況ごとに違いを浮き彫りにしたい。

まず「中品上生」と「上品上生」、俗な言葉で言えば中の上と上の上のマッチメイクである。すぐに想像できると思うが、どういう分野であっても、この組み合わせは全く勝負にならない。上の上という人材自体が別格である。上の上は一流中の一流としてエスタブリッシュされていることがほとんどであり、そもそもそういう人材は「全国で何人」というようにリストアップできるレベルなので、そもそも勝負するチャンスにめぐり合うこと自体が少ない。

次に「中品上生」と「上品中生」、中の上と上の中である。これも実際に当たってみれば、そこに越えられない壁があることを実感できるだろう。一応勝負には見える組み合わせにはなると思うが、結局は突破できない。それは上の中を維持するには才能だけでは無理で、中の上ほどではないにしろそれなりの努力と精進が必要となるから、その部分でもガチで勝負になる。結果的に努力だけではどうしようもない「格の違い」を見せつけられることだろう。

その一方で「中品上生」と「上品下生」、中の上と上の下の組み合わせは結構いい勝負になる。どちらがWinnerになるかは、基準によって大きく変わってきたりする。実際、学校でも会社でもある程度の規模の組織になると、その中でのベストパフォーマーの争いはこの「中の上対上の下」のパターンになることも多い。そもそも上の中以上になると、組織の中でも突き抜けてしまってライバルがいない状態になってしまっていることが多いからだ。

試験の点数のように定量的に測定できる評価基準の場合は、中品と上品の差はそもそも質的なモノで量的な違いではないので、しばしば中の上の方が高評価を得てしまうことも、組織内評価でプラスに働いてしまう。地頭の良い天才とガリ弁の秀才なら、まずガリ弁の秀才の方がテストの点はいいというのがこの勝負である。地頭の良い天才君は、あまり努力をせず才能だけでこなしているのでポカミスを良くやってしまうというのも、既知の問題にはほとんどミスがない秀才君に対してはオウンゴールとして働くことも多い。

芸術やスポーツの分野でもこの構図は明確にあった。スーパーリアリズムの絵画などが典型的で、スーパーリアリズムのテクニックだけに頼って表現したいものが曖昧な作り込み作品も、スーパーリアリズムの技法を手段として使用し自分の表現したい世界を表した作品も、表現には門外漢な一般人から見ると「同じ様にスゴい作品」と映ってしまう。そうなるとどれだけ微細な描き込みか、どれだけ写真に近いかといった、本質とは違うテクニック比べになってしまうからだ。

また、音楽や映画、小説などのポップカルチャーでは、「ヒットして広く人気を呼ぶ」というのが成功の基準の一つになっているが、これも「売上高」というような定量的な基準で評価しているので、中の上の作品の方がよりヒットし、上の下の作品はサブカル的なマニア受けに終わるということも少なくない。しかし、ここで重要なのは、すでに産業社会的なスキームでも、このような「対戦」はかなりあり、そこから学べる点が多いところにある。

これからの情報社会で重要な「ひらめき」の能力を持っている人材を最も探しやすいのが、この組み合わせの「対戦」である。産業社会的な量的な評価基準ではなく、その組み合わせを質的面から評価し直せば、「中の上同士」「中の上と上の下」「上の下同士」のどのパターンだったのかがわかる。そこから上の下の人材を見つけ出せば、かなりの確立で「発掘」することができる。組織が情報社会対応形に生まれ変わるためのカギがここにある。まあ、そのためには「中の上と上の下の違い」がわかる人材がいなくてはいけないというジレンマはあるのだが。



(23/03/31)

(c)2023 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる