戦略と陰謀





世の中には、自分が理解できないことを何でも「陰謀」にしてしまう人がけっこういる。 もちろん荒唐無稽なあらすじを描いてしまう電波系な人もいるのだが、「陰謀論」に与する人の多くは、目先のことしか把握できず、その奥にある深遠な戦略を体系的に理解することができないため、この部分を「怪しいブラックボックス」として「陰謀」と一くくりにまとめてしまっていることが多いようだ。

特に日本では、中長期的な戦略を持たずに、目先の利益だけを追い求めるやり方を取ることが多い。いわば「差し当たりの戦術」だけで、ウマくその場を凌ごうというやり方だ。一部のオーナー企業を除くと、日本の組織というのは、会社から国の政治までほとんどがこの「目先の戦術のみで、戦略的思考なし」という状態で運営されている。それでもなんとか回ってきてしまったのが、20世紀後半の「高度成長期」である。

そもそも日本人にとってはグローバルな意味での「戦略」というのは意識の外側にある。「戦略」という言葉だけはよく使われるが、それは本来の「百年の計」という意味ではなく、せいぜい「戦術の体系」程度の意味である。企業において「経営戦略」と称するマニュフェストを持ってはいるものの、その実態は「5年後に売上を倍増」とか「シェアNo1.獲得」とかいった中期計画の戦術であって、とても戦略と呼べる代物になっていない。

この原因は、「追い付き追い越せ」を実現することを目指した明治以降の日本の官僚組織にある。ベンチマークすべき「欧米列強」が目の前にあり、ひとまずそれに追い付くことが目標なのだから、戦略も何も要らない。ただひたすらそれをデッドコピーして自家籠中のものとし、スリップストリームに入れるところまでいけばよかった。目先の成果に最適化する行動様式は、このときに培われたものだ。

これがすっかり身についてしまい、戦略を考えることができないまま列強の一員として名を連ねることになってしまった。目先の勢いで始めたがいいが、軍人も戦略的思考を持たず責任を取ろうともしない官僚だったため、誰も止められなくなった太平洋戦争がその典型的な例である。この戦略の欠如と無責任さこそ、日本型官僚・日本型組織の特徴である。その分析は野中先生の名著「失敗の本質」に詳しい。

さて、こういう日本人だからこそ、相手が戦略的思考をしていても、それが見抜けないということになる。相手の戦略が読めない以上、大局観も持つことができない。目先の勝負だけしか視野に入っていないのだ。だから、一勝負終わっても、すぐに次の勝負が仕掛けられると、相手の動きが理解できず、なにか自分が騙されたような気になって「これは自分を陥れるための陰謀だ」と結論付けてしまう。

欧米の組織は、国家や軍事同盟などはもちろん、企業や団体等でも。どれも戦略的に動く。という以上に、きちんとした戦略がないと組織は動けないのだ。そもそも一神教の世界では個人は神の元に平等という考え方から個人主義が徹底しているため、それを束ねて組織として動かすには、明確なヴィジョンと目標をもった戦略が必要となる。日本のように寄らば大樹の陰で「この組織についていけばいいことがありそう」では集団にならないのだ。

「ユダヤの陰謀」などというのが典型的だ。あらゆる状況に対して用意周到に最も戦略的な対応をするのが、ユダヤ系金融資本の真髄である。かつてヨーロッパの帝国間での戦争になっても、どちらの国にも資金を提供して張ることで、結果がどうなっても全体としては儲かるスキームを構築して対応した。これなどまさに戦略的対応の骨頂であるが、戦略の意味を知らない人からだと「ユダヤの陰謀で戦争が起こった」となってしまう。

こうやって分析してゆくと、日本人が「陰謀論」好きなのは、そもそも戦略的発想ができないからに他ならない。戦略的にモノを考える人と、目先のことしか視野にない人とでは、最初の勝負こそそれなりにガチで組めるかもしれないが、その先を重ねてゆくたびに、戦略的思考を行っている人間の強さが引き立ってくる。そう考えると、日本と世界の勝負においては、負け試合はいつもこのパターンに陥っていることがわかる。一朝一夕に戦略的思考を身に付けることはできないが、せめてここが苦手なんだと自覚することで少しはリカバーできるだろう。



(23/04/07)

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