産業社会の終焉を見る





伝統的なロシア正教的世界と、エンゲルス以降の共産主義アジテーションが結合した、ソビエト・ロシア的な構造。それは、ある意味産業革命以降の産業社会がもたらした異端児ということができるだろう。ソビエト連邦崩壊後、求心力を見失ったロシア社会で一旦はその影響が弱まったものの、再び支柱としてそれが復権してきたのが、プーチン大統領登場後の強権的なロシアである。

そういう意味ではウクライナ侵略は、こういうロシア的な「正当性」とグローバルな「正当性」とがぶつかり合ったところに生まれたものと見ることができる。そしてこれによりロシアが世界を敵に回し総スカンを喰らっているというのが今の構図である。そして、その雌雄を決するカギとなりそうなのが、産業社会的な「物量」と情報社会的な「質」の対決とという構図にあるところが重要である。

産業社会の鬼っ子が、自分が自分でいられるための最後の居場所を確保すべく、情報社会的なスキームに対し決戦を仕掛けてきたとみることができる。しかし時の流れは非可逆的なものである。産業社会はすでに過去のものであり、いかに延命させたところでいつかはその命脈が尽き果ててしまう。その時を待つのか、その前に自らのリソースを使い果たしてしまうのか、その終りはどちらかでしかない。

日本においてはポストコロナの大きな影響として、産業社会の時代の権威だった人達がメッキを剥がされて素肌を晒し、社会的影響力を失ってしまったことが上げられる。官僚然り、学識者然り、マスコミ然り。その中、左翼・リベラル・野党の凋落も際立っている。これはロシアの行き詰まりと同じ構図で、革新系政党というもの自体が、産業社会の生み出した異端児であり、その存立基盤自体がなくなってしまったからに他ならない。

このように2020年代は、後世の歴史家からは「産業社会の残渣が消滅し、情報社会に本格的に移行した時代」として特別な目を持って捉えられることになる。ところが、今生きている人間は程度の差こそあれ、産業社会的スキームが色濃い社会の中で育ち、その教育を受け、その時代の「常識」に囚われている。実はこれこそが世の中の変化を見た目の通りに捉えられず、先入観からしか見れなくているのだ。

だからこそ時代についてゆけないまま、今となっては時代遅れとなってしまった「権威」なんとかすがりついていたいと切望するラガード層が一定数いる。この層は、ロシアを見ても日本の野党のコア支持者を見てもわかるように、権威主義的な全体主義を切望する傾向が強い。自分の頭でモノを考え、自分の足を地に着けて歩くことができないからこそ、より強い権威にすがり、その指示通り動いていたいのだ。

まあある意味彼等も最終決戦のような行動を取るということは、情報社会においては「自分の頭でモノを考え、自分の足を地に着けて歩くことができない」人間は自由に生きられる居場所がなくなってしまうということを、薄々直感的に感じ取っているのかもしれない。自分の生き残る可能性が薄くなればなるほど、特に日本人は自暴自棄になってカミカゼ的な成功の可能性が低い自爆テロに走りがちである。そう考えると、野党勢力得意の「ブーメラン」の連発も合点が行く。

いずれにしろ時間は非可逆であり、どんなにあがいたところでその流れに棹を射すことはできないのは、今までの人類の歴史、いや地球誕生以来の生物の歴史が示している。全ての変化は必然であり、時を刻むとともに冷酷に次のフェーズへと移行して行く。ただ、それが強く実感できる時代と、それほどでもない時代があることもまた歴史が示している。そういう意味では、自分達が今人類の歴史の転換点にいるという感覚は大事にすべきだろう。



(23/04/14)

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