「新階級社会」の特徴





情報社会が本格化すると「コンピュータはコンピュータの上に人を作り、コンピュータの下にも人を作るという」現象については、これまで何度もこのコーナーで論じてきた。人間が「コンピュータを使う人」と「コンピュータに使われる人」の二層に分化するというものである。これを筆者は「新階級社会」と名付けた。AIの普及の前に、見えぬモノへの恐れから「ラッダイト運動」の亡霊が出てきそうな勢いもあり、何か脅しのように理解する人もいるかもしれない。

しかし、新階級社会はかつての階級社会とは全く異なる構造を持っている。日本でもヨーロッパでも近世までの社会の基本だった階級社会は、人はある階級に生まれながらにして属し、その属性は絶対的に変化しないという固定性にあった。この固定性を前提に、全ての社会システムが作られ、安定化されてきた。しかし新階級社会の階級とは、全社会的な固定属性ではなく、ある領域においてその人がコンピュータの上か下かということを意味するのが特徴である。

従って、ある一人の人間が恒久的かつ絶対的にある階級に固定されて一生を終わるということはない。これが近世以前の旧階級社会との決定的な違いである。すなわち新階級社会の特徴は、その階級構造の多面性にあるといえる。もちろん何をやっても「うだつの上がらない」人もいるとは思うが、そういう人は産業社会においても存在したし、もはや自助努力ではなく社会的セーフネットの問題である。

領域という視点から見ると、一人の人が全ての領域で「コンピュータに使われる存在」という意味での固定した階級ではなく、いろいろな領域ごとに上の階級になったり下の階級になったりする。一方時系列的に見ると、ある領域において「使われる存在」だった人が精進の結果「使う存在」になることもあり得るし、逆に「使う存在」だったはずの人が技術の進歩についていけずに「使われる存在」になることもありうる。

芸術やスポーツの面でははっきりしているが、ある種目のスターであっても必ずしも他の種目でスターになれるとは限らない。腕のスイングを使う野球選手はゴルフをやってもけっこうなレベルの人が多いが、腕を使わないサッカーの選手はアスリートといえども一般人とあまり変わらない人が多い。名ピアニストや名作曲家が、歌を唄わせると決して上手とはいえない場合もしばしば見られる。新階級社会の階級性はこれに近いものといえるだろう。

同様に料理は天才的だが文章はからきし書けないという名シェフもいる。芸術家・文化人としては超一流だったが皇帝としての政治力は三流以下だった宋の徽宗皇帝などはその先駆者かもしれない。その一方でスポーツ万能だったり、何をやらせてもそこそこ天才的にこなすという人も存在する。まさに人の才能とは人それぞれなのである。このように軸がいろいろあり、その軸の捉え方によって階級構造が変化する点が新階級社会の特徴である。

そういう意味では、あらゆる局面で常に虐げられている固定的な階級があるわけではない。産業社会においては、人の評価軸は「偏差値」のようにリニアな一次元の数値として捉えられがちだった。その発想に嵌っていると、「コンピュータを使う人」と「コンピュータに使われる人」の二分化は「天国と地獄」になってしまう。しかし、情報社会は価値観が多軸になるのである。これが理解できれば、未来に関するディストピア感を減らし、来るべき時代を安心して迎えることができることに繋がる。

「情報社会の歩き方」の基本中の基本は、この「情報社会は多軸的価値観の社会である」という事実を受け止め、その中での自分のアイデンティティーを確立することにある。自分らしさはどこにあり、それがどうやれば自分の生き方に繋がるか。勉強や努力はAIに任せて、人間はこの部分を追及してゆくべきだのだ。それは本来の人間らしさを取り戻すユートピアでもある。とはいえ、それで大金が稼げるかどうかは、全く別問題なのだが。



(23/05/05)

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