能力主義





ハンディキャップがあることと能力がないことをはき違えてはいけない。情報社会では、能力の差が「コンピュータ以上・以下」という形で歴然と現れてくる。今までのように能力がないがゆえの「差」を、「差別だ」と言いくるめることは不可能になる。ある意味産業社会においては、「頭数」の多寡だけで勝負できた人海戦術的な要素が大きかっただけに、個々人に対して「差」が問われなかったというだけである。また、人数が多ければ凡才も多いがそれなりに優秀な人も混じってくる。

実は、差別が一番ないのは能力主義、市場主義に基づく新自由主義的な社会である。そういう意味では、新自由主義的な考え方は情報社会と最も親和性が高い。競争原理が働いていれば、能力さえあれば、民族も出自も性別も何も問われない。あらゆる人に、あらゆる機会が与えられる。そうでなければフェアな競争ができないからだ。確かに00年代のネットバブルの頃には世界的に新自由主義がブームになったが縁ないことではない。

機会の平等の下、あらゆる能力がフェアに評価される。これこそ真の平等ではないか。情報社会においては、「コンピュータの上に立てる」能力のある人間を抜擢することが極めて重要になる。そこには差別すべき要素はない。そこにあるのは「コンピュータを『使う』能力があるかどうか」という客観的な評価だけである。旧来の既存価値的な社会においては差別される可能性があっても、能力が高ければ重用される。そうでなくては、情報社会は乗り切れない。

たとえば、20世紀半ばのアメリカにおいても、差別は歴然としてあった。南部での黒人差別は知られているが、白人の間においてさえ差別はあった。WASPと呼ばれるアングロサクソン・プロテスタントの人々は大企業や官庁に就職して出世できても、イタリア系や東欧系、ユダヤ系は白人といえども差別され門前払いで、同様の学歴はあってもエスタブリッシュされた世界には入れなかった。そういう「見下された白人」の中にも優秀な人材は数多くいたが違う道を進まざるを得なかった。

その分、実業界や政界に進出していたら一流になったであろうイタリヤ系や東欧系、ユダヤ系などの優秀な人材が、スポーツやエンタテインメント、マフィア等の外道といった差別のない世界に流れた。この結果、その世界を牛耳る人材となってきたのは歴史が示している。これを見ても門戸を閉ざしてしまう世界よりも、機会の平等を貫き誰にでも門戸を開いている市場原理的な世界の方が人材を集めやすいことがよくわかる。

そして機会の平等を貫いた結果として、能力の高い人材が抜擢されて際立った活躍を残し、その組織や社会をより強靭なものとする。この結果こそが、機会の平等を貫くことの「正しさ」を立証しているともいえる。能力の高い人間がその能力を正しく評価されることこそ、情報社会において必要とされる「平等」である。本当に平等を実現するには、競争原理が一番大事なのだ。どんな出自であっても、優秀で能力の高い人間が、きちんと評価されるのはそれしかない。

だが世の中には能力の高い人間より、能力の低い人間の方が多い。これはどんな領域においても逃れることができない掟なのだ。そして、現代社会は一部の全体主義的な国を除くと、民主主義が社会の基本ルールとなっている。だから大多数が凡人である民主主義社会では能力主義は嫌われる。AIに対して、産業革命時のラッダイト運動のように、頭ごなしに新しいものを忌避する人がかなりの数存在するのもこれが原因である。

それだけではない。そもそも上に立つ立場の人間に人を見る力がなくては、能力主義は成り立たない。組織のマネジメントも才能のなせるワザなのだ。しかし、組織マネジメントができるリーダーシップのある人間は、それが能力である以上少数派になってしまう。大きな組織ではマネージャー以上に、マネジメント能力のある人材を当てようにも頭数が足りなくなる。その結果、多くの組織で能力主義を取り入れようとしても機能しないことになる。

もうここで何度も述べているように、情報社会を豊かで実り多いものとするためには、「コンピュータを使える」能力のある人間をきちんと「コンピュータの上」に立たせる必要がある。そのためには、競争原理を貫き真の能力主義を徹底する必要がある。これからの時代、結果の平等は意味がない。それは人類の滅亡を意味する。機会の平等、結果の不平等のみが、能力のある人材をコンピュータを使う側に立たせることができるのだ。



(23/05/19)

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