世紀末の犯罪





このところ、世の中を騒がすような事件が続出している。かつては社会面を賑わせる事件と言えば、先頃時効を迎えた「かい人21面相」のように、強烈な個性と主張を振りまくモノが多かった。しかし最近の事件は、どうも後味の悪い、暗く重苦しい何かを引きずっている。犯人の自殺でけりのついた、京都の小学生殺人事件など典型だ。
ある種、少し前に話題になった中学生による神戸の連続殺人事件も共通している。もっと言うとオウムの事件も根っこは似ている。これまた話題になっている、新潟の少女拉致事件も同様なのかもしれない。

このような、最近のといっても特に90年代に入って以降の事件には、そのルーツに共通するものがある。それは、無理に合わない社会に適合させようとしているがゆえに起こった悲劇ということだ。無言で社会が個人に強制する圧力。それに耐えきれなくなった時に起こる暴発。淡水魚は海には住めない。海水魚は川には住めない。汚染した川でも耐えられる魚もいれば、ちょっとでも水質が悪化すると生きては行けない魚もいる。それぞれ個性が違って当たり前なのだ。それを一つにくくろうとすれば、そこにコンフリクトが起こるのも当然のことといえる。

社会というのは一つではない。いろいろなクラスターがあって、それが独立に存在してこそ社会なのだ。みんな同じならば、それは社会を作る必要がない。人間として分業、協業する意味がないからだ。工場のラインは社会ではない。しかし何かがおかしくなっている。「多数」をよりどころにした、声になっていない主張のプレッシャーが、かつてないほど強くなっているのだろう。精神的にタフな人間であれば、少なくとも自分の家さえ「引きこもれる」場であれば、他のところでは営業スマイルでゴマかすことも可能だ。しかし、それができない人にとっては、無理に社会に合わさせることは、人格に対する暴力でしかない。

異質なものに対する目は、安定成長期に入った80年代以降、特に厳しくなっている。それはつきつめれば60年代や70年代のような「文化のフロンティア」がなくなったことと関係深い。世の中が目まぐるしく変化していたその時代、人々はクリエイティブに自分自身を見つめ、極めるのに精いっぱいで、他人のことなど気にするヒマがない。多少の奇人だろうと変人だろうと、ニッチに暮らせるぐらいの隙間はまだあった。しかし世の中が落ち着くと、文化基盤が豊かになり、廻りを探せばどこかで欲しいモノが必ず手にはいるようになった。同時の社会の情報化が進み、世の中から日陰が消えた。このあたりから同質であることへのあくなき追及と、異質なモノへの排除が目立つようになってきたからだ。

大昔、変わった人でも生きる道があった。それもある程度の敬意と権威を持ちつつ。その代表的なモノは「学者」だろう。一生かけてπを計算した「数学者」。一人で「辞書」を作ってしまった語学の研究家。珍しい標本の収集のために世界の秘境を極めた博物学者。いまならみんな変質者予備軍になってしまうだろう。エキセントリックなまでにその道を追及する「職人」や「芸術家」も多い。家族や社会をかえりみず、ひたすら自己の求める技法を追い続けた「陶工」や「刀鍛冶」。もはや社会からは「狂人の域に達してしまった」とみなされたアーティスト。かれらもまた犯罪者予備軍にされてしまう。

ヤドカリはサリガニににているが、ザリガニではない。だからサリガニのように殻なしで暮らせといって、殻をひっペがし、殻のない環境に置いたら死んでしまう。カタツムリはナメクジににていても、ナメクジではない。カタツムリの殻はカラダの一部なので、無理に取ったらそれだけで死んでしまう。似て非なるモノとはそういうもののなのだ。殻に入っているのが落ち着くのなら、入ったままにしておくのが礼儀というもの。それを無理やり引き出そうとするのは、人殺しに等しい。殺されそうになるならば、「その前にいっそ」とヤケになって反撃するのも、これまた世の常だ。

そうなる前に、そういう人達にはきちんと避難所を作ってあげる必要がある。そこに入っている限りにおいては、自分が自分のままでいられるし、他人からどうこう言われることもない場所。それを作って与えることがソフトランディングというもの。社会常識を押しつける側も、多様な価値観を認めようとしないことにおいては、同じ穴のムジナ。相手は違うヒトなんだから、自分達の価値観を押しつけてはいけない。一人一人が原点にたち戻って、そう認識すべきだ。イジメたものは、いつかイジメ返される。差別したしっぺ返しは、必ず自分に戻ってくることを忘れてはならない。

(00/02/18)

(c)2000 FUJII Yoshihiko


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