政府の「大きさ」





50代・60代には、今でも一定数の新自由主義信奉者がいる。彼等の主張は、自由競争によるリソースの最適分配を求めて市場原理を重視するとともに、外交・防衛等限られた範囲のみの小さな政府を求めるところにある。90年代から00年代にかけて新自由主義的な気風が世界的に広まっていた時に、ちょうど企業や組織の中核となっていた層だ。その時代の気風がしっかり価値観として刷り込まれているのが特徴だ。

当時はMBA取得などもブームとなり、それ以前の高度成長期における「モーレツ社員」の社畜的な企業に従属する考え方から、企業と個人とで対等な契約を結んでギブ・アンド・テイクでどちらにとってもメリットのある形をとって企業内で活躍するという考え方に変化していた。それは終身雇用・年功序列の日本的経営がグローバル・スタンダード経営に変わりだした時代の証でもあった。

もっともそれ以降の、現在40歳以下の世代になると、気の利いた人は高校生ぐらいから、自らベンチャーを創業することを考えるようになるし、大企業に就職するにしても留学して直接グローバル企業のヘッドクォーター採用を狙うようになる。日本の大企業に就職しようというのは、それ以前の世代における「親方日の丸」志向で公務員を狙っていた層と同じマインドになっている。

しかし、まだバブルをはさむ80年代・90年代という時代は、自らベンチャーを創業する人も増えてきたが、企業家精神を持った「やる気のある」人材も多く大企業に就職していた時代だ。吊るしの量販背広を着たサラリーマンではなく、イタリアンブランドのスーツを着たビジネスマン(男女雇用平等法以降なので、ビジネスパーソンというべきだろうか)が闊歩していた時代だ。

さてこの層は人口全体からすれば決して多数派ではない。しかし、政治的にキャスティングヴォートを握るという意味では、90年代以来政治的に重要な存在である。そして21世紀に入って、実はその役割はさらに増している。劇場政治の小泉改革も、政権交代の民主党政権も、この層がどちらに付くかというので雌雄を決する結果となった。小泉さんは直感的に、小沢さんは選挙のプロとして、これに賭けたのだろう。

このような変化が起こった裏としては、21世紀の情報社会になって、政治の構図が大きく変わったことが挙げられる。21世紀の情報社会における政治的な対立軸があるとすれば、それはもはや20世紀の産業社会のようなイデオロギー的なものではない。イデオロギー的な対立自体が産業革命と共に生まれたことからもわかるように、「持つ者と持たざる者」という対立軸自体が産業社会特有のものだからだ。

すでに何度もここで議論しているように、情報社会における政治的な軸は「大きい政府」対「小さい政府」に他ならない。日和見主義的に貰えるものは貰っておこうと、バラ撒きにたいしあんぐり口を開けて待っている層の中でも、実は二種類のタイプがある。マネーロンダリング的に、税負担が増したとしても結果としてバラ撒きの恩恵が増えそれにあずかれるのなら賛成という人。バラ撒きが貰えるなら欲しいけど、それで税負担が増すのであればいらないという人。

この両者の中では、数的には後者の方が多い。だから高度成長期のような右肩上がり経済でバラ撒きのための原資がふんだんにある時期なら、餌に群がる池の鯉のようにバラ撒けばバラ撒くだけマジョリティーがホイホイ集まってくる。しかし、財政が厳しくなってバラ撒きの前提として増税の方が強調されると彼等はポピュリズム的にそっぽを向き出し小さい政府の方になびく。後者の層は、欲しいものは欲しいが負担はイヤなのだ。

ここで確信的な「大きい政府」主義者と「小さい政府」主義者が、このヴォリュームゾーンを取り合う構図が成立する。かつてこのヴォリュームゾーンは、選挙の空公約でバラ撒きを期待させても付いてきた。公約などすぐ忘れてしまうからだ。しかし情報社会ではそうは行かない。情報社会においてはファクトが永久に残って明確なので、その場限りの口先の甘言ではなかなか騙せなくなるからだ。

かくして「大きい政府」による無責任な「バラ撒き」か、「小さい政府」による自己責任による「自立」かが、情報社会における最大の選択子となる。当然財政に余裕ができれば「大きい政府」はが勢い付くし、財政が厳しくなれば「大きい政府」派は増税を謳わなくてはいけないので支持を失い「小さい政府」派が勢い付く。この軸に沿った振り子こそが、情報社会における正しい政争のあり方なのだ。



(23/05/26)

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