真実とは何か





人間系における情報の伝達においては、一次情報と二次情報とがある。情報社会においては、情報として重要なものは一次情報、すなわちファクトである。それは情報社会における情報の使い方を考えるとよくわかる。自分が何か判断をするための指標となるのが情報だ。そしてその指標が間違っていたら、いかに判断のプロセス自体に問題がなかったとしても、その判断結果は好ましくないものとなってしまう。

産業社会においては、情報を収集することが非常に難しくコストのかかる作業であった。今なら取引のビッグデータを分析すればたちどころに把握できるマーケットにおける売れ筋の動向なども、わざわざコストを掛けて調査しなくては把握できず、その結果としてサンプリング調査しかできないので、ロングテール市場に至っては情報そのものが欠如しているという状況だった。

しかし情報社会においては今挙げたビッグデータの例のように、ファクトとしての情報はネットワークで繋がったコンピュータのあちらこちらに溢れかえっている。情報社会では、一次情報の把握が容易且つローコストでできるのだ。ここに至って本来の姿としての、「情報は判断のための手段」という位置付けがよみがえってくる。これこそが情報社会における「情報の掟」なのだ。

その内容を好むと好まざるとに関わらず、ファクトをファクトとして収集し受け入れるのがインテリジェンスの基本だ。しかし日本の組織ではこれが徹底していないところが多い。日本的経営においては、サラリーマン社長のトップは客観的なファクトを把握しようとせず、自分に都合の良い情報ばかりを選択して、それを真実をして受け入れ、それを基に判断をしようとする傾向が強い。

これを忖度して、部下も上司が喜びそうな情報を選び出して伝え、あまり良くない情報はもみ消したり、そこまで行かなくてもゆるい表現でしか伝えなかったりするようになる。このあたりは「失敗の本質」でも分析されているように帝国陸海軍からの「伝統」であり、それはとりもなおさず近代日本の官僚組織の本質でもある。日本的経営につきものの、自ら責任を取らずリーダーシップを果さないトップならではの行動様式ということができる。

産業社会においては情報収集のコストが高く、それなら情報収集プロセスはすっ飛ばして結論だけを知りたいというニーズが高かった。このため、マスメディアのジャーナリズムのように二次情報の流通はビジネスとして成立していた。しかしそのファクトをどう解釈するかという二次情報は、すでに解釈した者の主観が入っているので真実とはいえない。右肩上がりの高度成長期の経営は「お猿の電車」だったので、それでも通用した。

産業社会の時代の主流となった社会構造は「民主主義の大衆社会」であり、ここにおいては自分を持っている「自立・自己責任」な人間も、自分を持っていない「甘え・無責任」な人間も、一人の国民として等しい権利を持っていた。その分自分を持っていない人間は、何が正しいかを判断する基準が自分の中にないため、自分の外側に頼りを求めて、二次情報を重用したということもいえる。

新聞の凋落も、その原因はここにある。「紙」が売れなくなったわけではない。主観的な二次情報こそがジャーナリズムと勘違いした姿勢が、一次情報以外は必要ない情報社会では通用しなくなったからだ。その証拠に、既存の新聞社のネットニュースサービスは、本紙同様に顧客が離れている。ファクト情報の解説なら、今ではファクトデータをAIに食わせれば簡単に出てくるし、コストもかからない。これでは売れるわけがない。

このように情報社会で求められるのは、予断の入らないファクト、すなわち真実としての一次情報だけである。まさに「コンピュータを使う」側の人間は肚を据えて、それらの情報をもとに判断する。そのために必要なのは一次情報だけだ。二次情報がビジネスになるのは、今後はフィクションを基本とするエンタテインメントの分野だけになるだろう。この変化についていけないと、21世紀の情報社会は渡っていけないのだ。



(23/06/02)

(c)2023 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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