AIは日本を変える救世主





近代日本は明治維新以来、西欧列強に「追いつき追い越せ」をモットーとしてきた。結局150年以上かかっても「追い越せ」は出来ずじまいだったのだが、「追いつき」に関しては最適化を成し遂げ、ほぼ最高のパフォーマンスを上げ続けてきた。これは日本の近代はすべてを「追いつく」ことを至上の課題として最適化して来た結果にほかならないことを示している。その意味においては戦略的に成功したということもできる。

だがそれには弊害もあった。「追いつく」ことへの最適化とは、自分でものを考えたり発見したりすることなく、なんでも先例に学んで自家籠中のモノとすることを意味する、自分で生み出さなくても、追いつくことならなんとかなるということである。この結果、ひたすらマネをしてきた150年が、日本の近代史であった。それはひとまずウマく行ったが、その副作用として、組織や国家としては考える力を全く失ってしまった。

これではカーレースのスリップストリーム走行のように、追い付いて二番手をキープすることはできても、決して自力でトップに立てることはない。運が味方してトップが自滅してリタイアでもしない限り、永遠の二番で終わってしまう。70年代から80年代にかけて日米貿易摩擦のような快進撃があったのも、アメリカ経済がベトナム戦争で疲弊し、本来のパフォーマンスを発揮できなくなったがゆえのNo.1であった。

もちろん、個人レベルではクリエイティブな発想ができる人も歴史上たくさんいた。個人レベルで考えるなら、アーティストにしろアスリートにしろエンジニアにしろ、決して諸外国に劣ることはないし、充分に優れた人材をたくさん輩出している。しかし、それはあくまでも個人としての問題であり、こと組織となるとグローバルレベルでの一流のパフォーマンスを行うことができなかった。

それは日本の組織においては、「追いつき追い越せ」に最適化した「秀才エリート」を中核的人材として重用することが常識化していたからである。まさに「秀才エリート」こそ、自分でものを考えたり発見したりすることなく、なんでもひたすら勉強し、先例に学んでそのやり方を覚え込むのが得意な人だ。こういう人たちが官僚組織や大企業の中で跋扈し、そのトップにまで君臨したのだから、たまったものではない。

だが、時代は変わって情報社会となった。そしてAIが実用レベルにまで進歩した。AIは人間の勉強と努力を無意味にする。一人の人間がどんなに勉強と努力を重ねたところで、ネットワーク上の全ての情報を知識として利用可能なAIに敵うわけがない。なんでもひたすら勉強し、先例に学んでそのやり方を覚え込むのはAIの方が比較にならないくらい得意である。つまり秀才エリートは無価値なものとなってしまった。

日本を「Japan as No.2」にしてしまった張本人こそ、官庁や大企業を牛耳っていた「秀才エリート」なのだ。それだけにAIに対する反発が強いのもよくわかる。既得権を奪われてしまう人が社会のいたるところにいるからだ。しかしそれはとりもなおさず、明治維新以来の産業社会への最適化というスキームから脱し、新たな時代のスキームへとパラダイムシフトさせるための大きな原動力となっていることを意味する。

勉強と努力が無意味になり、才能と能力だけで勝負し評価される時代になる。このパラダイムシフトが実現すれば、日本社会は大きく変わる。日本にも個人レベルではクリエイティブで優秀な人材はたくさんいる。いままでのようなテストの成績による偏差値に基づく「秀才エリート」偏重ではなく、本当の意味での「実力勝負」の時代になれば、そういう人たちが活躍する、21世紀型の日本社会がやってくるだろう。もうV1は越えているのだ。



(23/06/09)

(c)2023 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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