発見する力





何ごとにも、変化にはプラスの面とマイナスの面がつきものである。もちろん事象によってプラスが多いものもマイナスが多いものもあり、それを足し合わせることで全体としての評価に繋がっている。21世紀に入ってから急速に進展している情報化には確かにプラス面が多いのだが、もちろんマイナス面もある。プラス面が多いからこそどんどん進めるべきなのだが、その場合にどういうマイナス面があるかを知ることも大事だ。

マイナス面の最たるものは、何でもすぐに聞けてすぐに答がもらえてしまう点だろう。元々考える力のある人は、日頃から問題意識をもっているから、自分で深く考えないまま疑問を持つと同時に鸚鵡返しですぐに質問するということはない。聞くにしてもなんらかの仮説を持った上でそれなりの答を出し、その検証や確認という意味で調べたり人に尋ねたりすることがほとんどだ。こういう人には変化はない。

その一方で、どちらにしろ考える力はないし自分では判断できない人は、社会の情報化が進む前から自分で考えることなどせずにすぐ人に答を聞いていただろうから、この層にもそんなに変化がない。かえってすぐに質問されてウザく思っていた周りの人にとっては、面倒なことを機械が変わってやってくれるという意味で救いになっているかもしれない。社会的なコストを削減しているという意味では、この層に対してはプラスかもしれない。

問題なのは、まだある程度の考える力がある層への影響である。この人達は考えることができないわけではないが、自分で考えて発見することは大変で面倒だと考えている。だから、簡単にローコストで答えを聞けるようになれば、すぐに尋ねて頼りがちだ。教えてくれる人やモノがあれば、自分で考えようとしないですぐ「答を聞く」のもこの層だ。よってこの層は、どんどん聞いて頼るようになり、自分でモノを考えることを止めてしまう。

このように前はちょっとは考えていた人達の間では、自ら気付いて解決するという「発見力」がどんどん退化してゆくのだ。すなわち社会の情報化が進むことにより(最近だとAIの利用が進むことにより、と言ってもいいだろう)、中間層の「発見力」「思考力」がどんどん低下し、社会全体としては思考停止してしまう人間が増えることになる。これがこれから大きな問題になる。情報化の最大のマイナス面の影響と言ってもいいだろう。

日頃から情報社会では、「コンピュータを使う人間」と「コンピュータに使われる人間」に二層分化すると述べている。この二分法でいけば、卓越した能力を持っていなくてもある程度「発見力」がある人間なら、分野は限られるかもしれないが「コンピュータを使う人間」になれる可能性がある。しかし「発見力」が退化してしまえば、ボーダーラインにいる層は、どんどん脱落して「コンピュータに使われる人間」になってしまう。

もし、情報化やAIの社会的影響があるとするなら、このようにコンピュータシステム自体が自らの手足となる「コンピュータに使われる人間」を増やすという自己増殖的な存在になってしまうことだろう。まさに「コンピュータに使われる人間」はコンピュータによってシステムの奴隷とされ、コンピュータシステムに縋ってしか生きていけない存在となってしまうのだ。まあそれも含めて「歴史的必然」ということなのかもしれないが。

とはいえ、かつてその人達が果たしていたような社会的役割は、コンピュータシステムの領分となってしまうが、それなりにキチンとこなされることは間違いない。AIの方が「出来心で横領」とかしない分、かえって成果は上がるかもしれない。多分、ラッダイト運動的な「反コンピュータ」「反AI」的な動きは、この層が中心となることだろう。とはいえ、稼ぎは悪くなるかもしれないが、コンピュータに使われていれば食うには困らない社会にはなる。

実態としては、今までロクに仕事をしないでそこそこのお賃金をもらっていた、官僚やホワイトカラーが、まさにこの層の中心である。機械による情報処理ができなかった産業社会の初期においてそれを人海戦術でこなすこの層は、高給を払っても生産性を高めるためには必要だった。しかしそれ以来の慣習で、前例主義の定型作業に多くの人を雇い高い賃金を払っていたことが間違っていたのだ。返せとは言わないが、反省しろ。あんたらのやっていたのは、そもそも作業で「仕事」ではないのだから。



(23/07/07)

(c)2023 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる