違いを受け入れること





真の意味での多様性を実現するには、違いを受け入れることが何より重要である。特に左翼・リベラル系の人達は激し誤解(曲解)していることが多いのだが、多様性の尊重とは「弱者を上から目線で助ける」ことで自分の味方にオルグすることではなく、意識や考えが違っていてもそれを相手に押し付けることなくそれぞれがそのままで勝手にやっていける状態のことである。まさに「違っていてもよい」ことを認めることだ。

つまり一つの価値軸上で、上下関係を残したまま並存することではなく、違う軸の上に乗っていることを認識し合うことである。ここが重要である。違う軸を認めることは、自分のアイデンティティーを持たず他者に依存している人にとっては、自分の居場所が曖昧にあってしまうことを意味する。だから権威主義的・全体主義的に権力に依存して憑依することでのみ自分を認識できる左翼・リベラル系の人にはこれが難しいのだ。

他者に対しての違いを受け入れられるようになると、今度は自分自身の内面においても違いを受け入れられるようになる。自分と他人は違っていて当然だと思えるということは、他人を妬んだり恨んだり、自分を卑下したりすることなく、あるがままの自分とまわりの社会との関係を肯定的に捉えられるようになるからだ。実はこれがこれがこれからの時代においては非常に重要なことなのだ。

情報社会では、才能や財産など「持って生まれたもの」の違いが大きく影響するし、それは努力や勉強ではどうにもならないものである。この内容は人により大きく異なる。「隣の芝は青い」とばかりになんとか追い付こうと思っても、産業社会の時代のような「金で解決する差異」ではないからだ。まさに「自分の内面」でその違いを受け入れられなくては、情報社会では生きてゆけない。

逆に言えば、内面でこのような違いを受け入れられるのであれば、「コンピュータに使われる人間」も決して不幸ではなく、「甘え・無責任」な「他人に頼る」タイプの人にとっては住めば天国かもしれない。ここが20世紀の産業社会と21世紀の情報社会で決定的に異なる点である。これを矛盾なく受け入れられれば情報社会は住み良い社会となるし、産業社会のようにどうしても横並びを求めれば、永遠に不満と憎悪が絶えない社会となってしまう。

今までの人類の歴史を見てゆくと、現状を現状として受け入れその中で幸せを見出す道は宗教の役割であった。親鸞聖人の「平生業成」も、カルヴァンの「予定説」も、まさに人がこの世に生を受けたとき阿弥陀様やゼウス様がその人生のあり方を決めて与えてくれたものである以上、現実社会の中で自分が背負っているモノを受け入れ全うすることが極楽浄土や天国へ昇れる道であることを説いている。

奇しくも、鎌倉仏教もプロテスタントも日本においては平安時代やヨーロッパにおいては中世という古典的貴族社会が崩壊し、庶民が中心の社会に構造変化する中で現われてきた。縋るべき絶対的権威が明確な社会から、自分が自分の足で立たなくてはならない社会へ。そういう社会の変化の中では。自分に与えられた運命を受け入れ、それを全うする原動力となるような教えが求められたことがわかる。

親鸞聖人の言葉で現代社会で最も誤解されている双璧といえば「いわんや悪人をや」と「自業自得」であろう。これどちらも現状を現状として受け入れることが、最終的な幸せに繋がることを示した言葉だけに、現代社会で誤解され誤用されているのだ。産業社会においては「バスに乗り遅れるな」が基調だっただけに、追い風に乗ってしまえば現状を受け入れ肯定する必要はなくなったからだ。

「いわんや悪人をや」は「悪人」の意味が鎌倉期と今とで変わってきてしまったのがそもそも誤解の原因ではあるのだが、当時の悪人とはすなわち「運の悪い人」。「悪い運」をいうのはそれだけ重い業を負わされたのだから、それを受け入れ人生を全うすればそれだけ極楽浄土が近くなるという意味である。「自業自得」は、まさに自分に与えられた運命を受け入れてそれから外れることなく生きてゆけば、必ずや救われるという意味である。

情報社会を円滑に機能させるカギはここにある。「違い」を自分に課せられた業として受け入れ、それを否定することなくその枠内で人生を全うする。このモチベーションとなる精神的な支柱があれば、本格的な情報社会への移行は円滑になる。いや、情報社会への進化において最も重要なのは、コンピュータやネットワークのような情報処理技術ではなく、この精神的支柱である。今こそ、このような「21世紀型宗教」が切に求められている。



(23/07/21)

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