タイプ分け





人間にはそもそも二つのタイプがある。それは勤勉な人間と怠惰な人間である。それは「やる気のある人間」と「やる気のない人間」と言ってもいいし、「ケジメを付ける人間」と「なあなあで済ませる人間」と言ってもいい。また「自分でモノを考える人間」と「何でも教えてもらいたがる人間と」いう行動様式の違いとも強い相関がある。いずれにしろ、人種・国籍を問わず人間の本性として、こういうタイプの違いは存在する。

もちろん私は二元論者ではないので、これは人類全体を「全てに於いて勤勉な人間」と「全てに於いて怠惰な人間」に二分することを意図しているものではない。基本的には多面的・多軸的なものであり、得意な分野は勤勉だが不得意な分野は怠惰というように、一人の人間の中でも場合により対応が変化するのが普通である。とはいえその分布はスペクトラム的なので、勤勉な分野が多い人と怠惰な分野が多い人という違いは生じることになる。

このためミクロ的に見れば一人の人間の中にも分野によって両面性があるものの、マクロ的に集団を統計的に捉えれば、「自分でやることが多い人間」の集団と「他人任せにすることが多い人間」の集団という大まかなクラスタが生じてくる。間違ってもらっては困るのだが、これはどちらが良い悪いという価値観ではなく、純粋に統計的に分析すればそうなるということだ。実は、この違いこそが情報社会では極めて重要になる。

この二つのクラスタは、20世紀から私がずっと主張している「自立・自己責任」と「甘え・無責任」という意識に関する属性と相関が高いし、「小さい政府・自由主義」「大きい政府・権威主義」という21世紀の主たる政治的構図の要因ともなっている。どうやら情報社会の21世紀においては、この大きな二つのクラスタの違いが社会構造に対して最も大きな影響を及ぼす要因となっていると思われる。

その理由は、この「二つのクラスタ」が情報社会の基本構造である「コンピュータを使う人間」と「コンピュータに使われる人間」という構造とも強い共通性を持っているからだ。問題意識を持ち自分で考えてそのソリューションを編み出そうとする人間は、コンピュータを手段・道具として使うことができる。このスタンスこと「コンピュータを使う人間」足りうる上で求められる必須の条件だ。

その一方で何でも人に頼りたがる人間は、大した知識のない相手にもすぐモノを尋ねるぐらいだから、AIのような人類が培ってきた全知識を蓄積しているシステムがあれば喜んで何でも答を聞いてしまうだろう。これを繰り返していると、システムのアウトプットは何でも無条件で信じるようになってしまう。こうなればもう「コンピュータに使われる人間」への道からは戻ってこれない。

「コンピュータはコンピュータの上に人を作り、コンピュータの下に人を作る」というのは、マイクロコンピュータが出始めた70年代の学生時代から主張し続けてきたことだが、情報の蓄積と処理についてコンピュータは、人間個人の頭脳あるいは人間の組織力のはるかに及ばないパワーを発揮できることは、その時代から予測されてきた。そしてその後半世紀に渡る技術の進歩は、それを現実のものとしてきた。

産業社会においては、人海戦術で「情報の蓄積と処理」を行ったためそれに長けた人材が重用された。情報社会においては、そこはコンピュータとネットワークに任せ、そこから得られた情報で判断をする人間が重要になる。そういう構造を持っているからこそ、「コンピュータを使う人間」と「コンピュータに使われる人間」との間では圧倒的なパフォーマンスの差が出てきてしまう。これを受け入れられるかどうかが、これからの世の中を幸せに生きてゆけるかどうかのカギになる。



(23/07/28)

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