ステューピッドなメディア






インターネットの興隆期に、「インテリジェントなネットワークから、ステューピッドなネットワーク」という議論があった。電話のようにコミュニケーションのチャンネル自体をネットワーク側が規定するシステムから、パケット通信のようにネットワークはただ垂れ流すだけで、コミュニケーションチャンネルを成り立たせる主体は、送り手・受け手の側に変わるというものだ。これはあくまでもネットワークとかデータ通信とか、低いレイヤーでの議論であった。しかし、最近の社会状況を見ていると、コミュニケーションのもっと上部のレイヤーでも同じようなことが起こりつつあるのではないかという気がしてくる。

人間系に近いレイヤー、すなわち業界用語としてのメディアについても、メディアの側にチャンネルを成り立たせる基準がビルトインされているのではなく、ユーザーの側がそれを用意する時代に入りつつあるのではないかということだ。テレビが典型的だが、かつてのように、NHKから日テレ系、CX系とある系列が基本となり、各メディア=チャンネルごとに番組があるのではなく、いろんな番組が押し寄せてくるかたまりとしてのテレビがあり、その中から視聴者は好きなコンテンツを選ぶようになっている。もっと一般化していえば、ソーメン流しよろしく、あふれんばかりに垂れ流されているコンテンツの中から、欲しいモノをメディアの意図と関係なく、受け手の側が選ぶということだ。

この変化の要因は、 メディアの多チャンネル化・ディジタル化にともなうインフラコストの低下にある。いわば「容量余り」時代の到来ということ。インフラとしてのメディア自体は何の差別化にもならず、何の独自性もない「透明な存在」となった。その一方で受け手は直接コンテンツ、すなわち送り手のメッセージに反応する。これがもたらすモノには、メディアでターゲットを絞ることの無意味化がある。メディア自体のターゲットをまず考えてメディア選定することは、余計なコストがかかることにつながるからだ。それならば、ノンターゲットでいちばん安く数を取れるメディアを利用してばら撒いたほうが安い。コンテンツがターゲットを規定する時代なのだから、おのずとそこにターゲットは集まってくる。

これを逆に受け手の方から見ると、こういうことになる。メディアの目の前に自分はいるし、古い意味での「視聴」はしているのだが、自分の心の中には情報やメッセージが届いていない状態がデフォルト。それを打ち破って、アテンションを惹きつけメッセージが届くかどうかは、コンテンツの中身次第。メディアはただ垂れ流すものでしかない。そしてそれを受け止めるかどうか判断するのは、受け手の勝手ということになる。ザッピングしている最中でも、当人の意識をひくCMが出てくれば、思わず手を止め見入ってしまう。その反対に、当人のアテンションを惹かないCMは、いくら目の前で露出されても、上の空ということになる。たとえそのヒトが、その商品のメインターゲットだったとしても。

もともとテレビというものはその傾向が強かった。実はテレビとは、暇つぶし、ながらでだらだら見ているもの。選択視聴なんて真っ赤な嘘。だから、画面が興味をひけば、ぐぐっと惹き込まれるが、そうでなければ漫然とした時が流れるだけ。視聴者が積極的にリモコンを使うようになってからは、興味を引きつけ続けて、チャンネルを変えさせないための番組作りが難しい課題となった。ワイドショーとかバラエティーとか、CMのタイミングや、盛り上げの演出にはいやが上にも凝らざるを得ない。今テレビの制作者が、どれだけこの問題に腐心していることか。メディアを飛び越えてコンテンツが結ぶ、送り手と受け手の共振関係は、すでに始まっているのだ。

これは、もっと選択的なコンテンツでも同様にいえる。新作映画を使ってアメリカで行われた実験ででた、完全ビデオオンデマンドより、疑似ビデオオンデマンドの方が視聴者を多く集めるという結果がそれを示している。これは世の中自体が、創り出す時代から、選び出す時代に変わったということでもある。いいモノは、世の中にあふれるほどある。だから選択と再発信だけでで自分の世界を作れるようになった。いわば、アーティストからDJ化。デザイナーブランドからセレクトショップ化。最初に新しいモノを創り出すクリエイターはもちろんいるし、そういうヒトがけっきょくは時代のトレンドを引っ張ってはいるのだが、それを広めるのは選び出す流通と、そのセンスに乗るより多くの人達、という時代になっているのだ。

だからこそ、コンテンツやメッセージそのもので、ターゲットを絞るアドレッシングを行うことには意味がある。あらゆるコンテンツが目の前を流れてゆき、その中で欲しいモノだけを受け手が取る。受け手からはそれ以上の積極的な選択は必要ない、いわば「回転寿司化」が起こっている。これをコンテンツのパケット化と呼ぶことにしよう。あふれんばかりに垂れ流しておいて、誰もが触れられるようにしておけば、その中で受け手が「自分へのメッセージ」と認識したものだけを勝手に選び取る。自分にメッセージが向かっているという記号性が強ければ、メディアの仕掛けがなくても、世間にあふれてさえいれば自然に広まってゆく。たとえば、60年代末から70年代初めのロックレボリューションの時期に、ロックがあれだけ多くの熱烈な支持を受けたのは、変わる時代を象徴する記号としてロックが存在したからであり、自分がそのターゲットだと感じるヒトはみんなむさぼるようにそれを求めたからということを思い出してほしい。

ソフトコンテンツは昔からそうだった。やはり60年代にヒットした健さんのヤクザ映画では、みんな見終わって劇場からでてくるときには、健さんになり切っていたという。そもそも、そういう願望のある人しか集まらないし、そういう願望を満たすためにコンテンツがある。そういう蜜月がソフトコンテンツにはつきものだ。それはコンテンツ自体に明確な個性があり、それが特定のターゲットに対するアドレッシングになっているからだ。その極端なモノは、マニア向けのカルト映画だろう。好きなヒトは三度のメシより引きつけられるが、関心のない人にとっては、その存在すら意識の外だ。

最近顕著になった変化は、ソフトコンテンツのみならず、一般の商品やサービスもそういう「パケット化」が進んできた点だ。共感する人だけに伝わる、商品の魅力がヒットを呼ぶ要因になる。そういう意味ではコミュニケーションと商品やサービスは、互いにその姿を近づけている。これは広告キャンペーンの変化呼び起こすだろう。広告キャンペーンは、特定のターゲットに強く共感を呼ぶCFを、オールターゲットのメディア配分で投下するのが最も効率的ということになる。そして、そのメッセージは、その商品やサービスが持っている皮膚感覚とシンクロしているモノでなくてはならない。

クリエーティブメッセージには、ターゲットへのアドレス機能という、今までにない役割が付与される。実はこれは今までの手連手管では通じない。もちろん、それを可能とする演出技術を持っている一流のスタッフがいることは間違いないが、どういうメッセージをどうみせるかというディレクションには、いままでの閉じた広告クリエーティブの世界の中だけのノウハウでは対応できない可能性もある。しかし専門の制作プロダクションならいざ知らず、プロモーションも含めキャンペーン全体を扱っているような広告会社なら、対応は可能だろう。その一方でいままで広告会社のコンピタンスとされていたメディアプラン、メディアミックスの領域は、細かいことはいわずに、より多くの露出をいかに安く実現し、コストパフォーマンスを上げるかという視点に特化することになるだろう。

ステューピッドなメディアの登場は、コミュニケーションの上では大いなるチャンスだ。アイディアと表現次第では、極めて効率よくターゲットにダイレクトにコミュニケーションできる。もうメディアプランがどうのこうのという面倒なものは必要ない。人目によく触れるところに、踏絵をおいておけばそれで充分。引き寄せられる人は、そこにどんどん引き寄せられるし、敬遠する人は、そこに天敵がいるかのように寄ってこない。メッセージは、それ自体が雄弁に自分を語ってこそメッセージ。露出する場所を選んで工夫するなんて本末転倒だ。そういう意味では、メディアも本当の意味でインフラよりコンテンツ、中身がすべてを問う時代になってきたということができるだろう。

(00/02/25)

(c)2000 FUJII Yoshihiko


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