秀才に任せるリスク





産業社会においては、定型的ともいえる情報処理を伴う作業も人海戦術で行わなくてはならなかった時代が長く、組織構造や管理システムもそれを前提としたものが踏襲されてきた。本質的な内容よりも形式要件を重視する官僚機構などその典型といえるだろう。こういう組織において最も重用されたのが、過去の事例をよく勉強して知識が豊富な偏差値エリートの秀才である。いつも主張しているように、秀才とは産業社会の産物なのだ。

何が事案が発生した場合、それに最も適合する前例を引っ張り出して対応することが一番確実な解決策だったからだ。そういう意味では秀才には「モノを考え出す」ことは求められないし、それをこなす力を持っている保証もない(まあ個人レベルでは、創造的な能力を持っていた秀才もいるとは思うが、それは全く独立の事象である)。つまり基本的に、彼等には情報エントロピーを下げる力はないのである、

前例主義に基づく人間系による情報処理こそ、彼等が得意とする領域だ。だからこそ、想定内の事象が起こっている限り、彼等のパフォーマンスは高い。だからこそ、ローリスク・ローリターンの安定運用こそ秀才エリートに任せるのが安心だ。過去の実績に基づいた運用で無理をしないし、社会・経済自体が安定的に右肩上がりの時には、これほど間違いがない運用はない。そしてまさに産業社会とは右肩上がりの経済が基本だった時代だ。

しかしローリスク・ローリターンの安定運用でもオーガニック・グロウス分は得られたというのは、産業社会の高度成長の時の話だ。かつて昭和の時代には銀行の定期預金に預けておいても、年数%の利子がついた。元利保証のMMFでも年利10%近くで回った時代もある。しかし、銀行預金から利子が消えて久しい。もう20年ぐらいになるだろうか。今の新社会人には、そもそも預金でお金が増えることなど信じられないだろう。

それは何も失われた20年・30年だからという話ではない。今でもちゃんとお金が年利数%で回っている世界は現実にはたくさんある。マンション・アパートの一棟買いなどがその代表といえる(そもそもそういう物件の販売価格自体が地価とか関係なく、年間収入を5%とか期待利率で割引いたものだ)。投資信託などの金融商品でも、ウマくポートフォリオを組めば、そのぐらいのリターンがあるものはけっこうある。

その違いはどこにあるのか。それは21世紀の情報社会は、リスクを取るのも取らないのも自由だが、リスクをとらない限りチャンスがない世界だというところにある。ノーリスク・ノーリターンの世界。リターンが欲しいのなら、リスクを取らなくてはいけない。その一方でリスクを取る勇気があれば、それに見合ったリターンを得られるチャンスはいくらでもある。情報社会の勝者は、蛮勇ではなく知性的判断でリスクを取れる人ということになる。

このような時代において、一番立場が弱いのは秀才エリートだ。彼等は知識と勉強だけが強みだったのだが、ネット上の全ての情報を知識として学び判断ができるAIの登場に至って、その優位性は失われた。想定内の前例主義で安全ポートフォリオを作るなら、AIに勝てるものはない。ほぼパーフェクトな答えを出してくれる。相手は人類の過去の情報全てを知識としている以上、秀才エリートがどんなに頑張って勉強しても全く歯が立たないのは当然だ。

それでは、人間の立場は何か。今までにない戦略であえてリスクに賭け、大きなリターンを得る肚を括った度胸だ。それは過去においては「天才的な勘」と呼ばれていた、超能力のような力ともいえる。しかし、それは無謀な冒険ではない。天才はヒラメく瞬間に、全てが見えて見切っている。並の人間には理解できないかもしれないが、この「未来が見切れる」ことがヒラメきなのである。天才と秀才以下の凡才との決定的な違いがここだ。

自分には見えているが、それに全て賭けるというのはそれなりに度胸がいる。自分自身に対して相当な自信を持っていないとできないことだ。だから、天才でありなおかつ自分に対して強い自信を持っている人だけがリーダーシップを執ることができる。ここまで見てゆけば、産業社会のように秀才エリートに権限や権力を与えるというのがいかにこれからの社会においては危険な事かわかるだろう。もはや秀才という存在は、リスクの根源でしかないのだ。



(23/08/04)

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