ディベートのできない日本人





世界には功利心で動く人たちと、忠誠心で動く人たちとがいる。概して大陸国家の人達はイヤになったり都合が悪くなれば勝手に逃げてしまえばリセットできるので功利心で動くタイプになることが多いが、海洋国家の人達は基本的に集団での逃げ場がないので忠誠心で動かざるを得ない。そういう意味では日本人は、ロイヤリティーからものを考える代表的な人達ということが出来るだろう。

功利心で動く限りにおいては、いかなる立場も相対的である。もちろんその時その時についてはリーダーに対する忠誠心は持ち合わせているが、あくまでも誰と組むかという「契約」に基づいているのであり、一つの軸のプラスとマイナスという絶対的な敵味方の関係は存在しない。アメリカの大リーグの選手が、ペナント争いの最中の敵チームにトレードされても、その日から出場して活躍できるのはそのためである。

その一方で日本人の多くは、敵か味方かという絶対軸しか持っていないので、どっちと組むのが得かという合理的な判断ができない。そのため自分の能力を活かすことなく、かつての軍艦の艦長のように「艦と運命を共にしてしまう」選択をしがちである。ましてや、「敵」と組んで自分を高く売るなどという発想は夢にも及ばない。その結果、折角のチャンスを生かすことなく挫折して終わってしまうことも多い。

誰と組もうと、どちらに付こうと、それは本人の自己責任においての自由である。そちらの方が合理性があって有利だと判断すれば、昨日までの不倶戴天の敵と連合を組むことも可能なフリーハンドを残しておかないと、選ぼうにも最適化した選択支がないという状況にもなりかねない。あくまでも考え方は立場の違いによるものなのだが、その違いがわからない。千年以上にわたって合従連衡の繰り返しをしてきたヨーロッパと、太平の眠りを満喫してきた日本の違いである。

裁判もそうである。法治主義の国においては、裁判とは倫理的な善悪や価値観としての良し悪しを判断するものではなく、法律と過去の判例に照らし合わせて、どういう判断が最も矛盾がないかを争うものである。だからこそ、法律が改定されれば当然結論は異なったものとなるし、そのために法律の改正が行われる。しかし法律や過去の判例との整合性ではなく、自分の価値観との適合性で判決を評価する人がけっこういる。

特に左翼やリベラルの人達にこのような勘違いをしている人が多い。というよりそう信じ込んでいるといった方がいいだろう。本来、その判決が気に食わないのであれば、判決をどうこう言うより法律自体を改正する運動をすべきである。まあ「護憲」を主張して、憲法の条文は金科玉条のごとく手を触れずに、解釈によって自分に都合の良い運用を実現しようという人達だからこういう考え方がでてくるのだろうが、全く法治主義・立憲主義からは程遠い。

日本人が海外の学校に行って、ディベートができないといわれる理由もここにある。見てきたように日本人は島国根性で、忠誠心を基準に敵と味方の二元論を先に建ててしまい、ロジカルな正当性・整合性と関係なく「味方は常に正しく、敵は常に間違っている」とハナから信じ切ってしまう。ここには論理性は存在せず、精神論だけが罷り通っている。まさに昨今のリベラル・左翼の行動様式は、これをキッチリと守っているのだから面白い。

それゆえ、相手の立場になって相手側の正当性を主張するなどというロジカルな思考ができるわけがないのだ。敵も味方も客観的に見れて、そのどちらの立場での正当性もキチンと理解できるからこそ、ディベートができる。思考や論述の能力以前に、状況を客観的に捉えることが極めて苦手なのだ。これでは太平洋戦争でも貿易摩擦でもアメリカ相手に勝てるわけがないではないか。物量以前の問題だ。

グローバルスタンダードでは、先に絶対的な敵味方を作らない。常にどっちと組んだ方がいいかを考えて、おいしい方と組むのが原則である。互いに敵としていがみ合っていた相手でも、そいつと組んだ方が合理的ならアッサリ組める。だからこそ客観的に状況を見れるし、最適解の判断ができるのだ。それゆえ、味方の論理だけでなく、相手側の論理に則ってモノを語れる。日本が世界において決定的に弱いのは、実はこの点である。こういう発想ができる人間は日本人にもいるので、世界で勝負する時はそういう人材を重用すべきだ。



(23/08/25)

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