マルクスのユートピア





世の中でマルクスの描いたユートピア像ほど歪んで伝わっているものも少ないだろう。マルクスは政治家でも経済学者でもない。人間社会のあるべき姿を描いた哲学者・ヴィジョナリストというのがその本当の姿である。19世紀の社会の現状に対して問題意識を持っていたことは確かだが、それを暴力で打破することより、本来あるべき人間社会の理想の姿を描くことで、未来がそちらの道に進むことを夢見ていたのだ。

マルクス自身が直接まとめた著書は限られており、活動家エンゲルスが哲学をアジテーションに書き換えてしまい、人目に付くのはそっちの方しかないのだから仕方ない。資本論や共産党宣言はかつてはカール・マルクス著フリードリッヒ・エンゲルス編となっていた。最近では共著ということになっているものが多いが、基本的にこれらはエンゲルスが書いたエンゲルスの思想のプロパガンダである。

カール・マルクスが活躍したのは、産業革命直後の時代である。蒸気機関の導入により急激に生産力が高まったものの、まだ生産過程においても人手に頼る労働集約的な部分が多く、産業社会としてもまだ未熟な段階であった。彼の活動の舞台となった英国では、大衆社会が到来する19世紀末はまだ半世紀近く先であり、近世的な階級社会が綻びていく過程の真っ最中であった。その時代において、将来の人類のあるべきユートピアを見通していたことを忘れてはならない。

突き詰めて言ってしまえば、彼の理想像とは「極めて生産力が高くなれば、ユートピアが実現する」というものである。20世紀に入り大衆社会が到来すると共に、科学技術の進歩により彼が想像した以上に生産力は拡大し、産業社会は高度に発展を遂げる。ある意味マルクスの「預言」は半分当たっていたといえる。だが、生産力の増大だけでは解決し得ない問題がそこにはあった。

マルクスの理想郷を捻じ曲げ、19世紀の人達が手が届きそうに思うバラ撒き社会のプロパガンダにしたエンゲルスの後継者たちが打ち立てた「社会主義体制」ではなく、自由主義と競争原理こそが産業社会を高度に発展させ、マルクスのユートピアへ人類を一歩近づけたというのは、いかにも皮肉である。ある意味、多くの犠牲を払いつつ、壮大な社会実験が行われたのが20世紀だったといえるだろう。

人類がユートピアにたどり着くために残された問題、それは生産力の増大により経済が高度化すると、社会を運営するための情報処理に極めて多くのリソースが必要となることであった。19世紀の人々にはいかに哲人といえども考えが及ばなかった情報処理という壁が産業社会に立ちはだかっていたのだ。この壁を乗り越えるためには、機械による情報処理、すなわちコンピュータとネットワークの発達が必須であった。

そういう意味では、情報社会となった21世紀の今こそ、マルクスの描いたユートピアとはどのようなものであったかをもう一度捉え直すべき時といえる。そのためには、エンゲルス・レーニン以下の「活動家」が政治的プロパガンダとしてしまった「共産主義」ではなく、そのような「汚染」を取り除いた上で、哲学者としてのマルクス自身が描いていたヴィジョンを再現する必要がある。

そのようなユートピアとは、人々が自分の望む道に応じて人生を選べる社会であろう。バラ撒いて欲しい人は楽してバラ撒いてもらえるし、自己実現したい人にはいくらでもチャンスがある。それぞれあるべきあり方を押し付けられるのではなく、自分の理想を追い求めて生きてゆくことが出来る。しかし、これはもしかしてコンピュータの上と下に人がいる社会そのものではないのか。であるならば、これは情報社会を考える上で大きな役割があるだろう。



(23/09/08)

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