人々はなぜ共産主義に惹かれるのか





人々はなぜ共産主義に惹かれるのか。それは決して前回分析したようなマルクスの描いたユートピアに憧れているからではない。そもそも政治システムとしての共産主義は、エンゲルスやレーニン以降の産物であり、マルクスの考え方ではない。そして共産主義による支配は決して成り立たないものであることは、大きな犠牲を伴った20世紀の壮大な社会実験の結果として立証されている。

しかし、それでも共産主義は一部とはいえ支持されている。それを公式のイデオロギーとしている国家もまだ存続している。マイノリティーとはいえ今でも共産主義に一定の支持者がいる理由はどこにあるのだろうか。それは、近代においては独裁や暴力による支配を肯定するイデオロギーとして共産主義に勝るものがないからである。現代において独裁政治や強権政治の理論的支柱たり得るものは、共産主義しかないのだ。

中世から近世の絶対王政の時代までは、王権神授説のような宗教的な権威が国王の独裁や暴力を担保するものとなっていた。神と人間ではその権力の強さは比較にならない。このため、「神の意志」という錦の御旗がある以上、王様がどんな無理難題を吹っ掛けようと、誰一人それに反対する人はいなかった。もっとも、それ以上の暴力を以て王権を奪ってしまうという方法は残されていたし、そういう「政変」の例もいとまがない。

しかし、経済の発展による市民層の台頭とともに市民革命と呼ばれる変化が起こった。王様といえども、神から絶対的な特権を与えられているとは認められなくなったのだ。社会の中心が貴族層から富裕市民に変わってゆくと共に、議会が開設されるなどして市民層の意見が政治に反映されるようになった。これにより絶対王政的な権力構造は崩れ、王権を担保するものは社会契約説に取って代わった。

この変化によりそれ以降の時代においては、アプリオリに独裁や暴力を振り回せなくなった。権力による独裁や暴力を肯定・賛美しようとすると、絶対的な権威が存在しない以上、社会契約的に独裁権力を成り立たせる理論構築が必要となる。このようなに独裁や暴力を肯定・賛美する理論に関しては、エンゲルスからレーニンへの流れの中で生まれた共産主義を凌ぐものは未だに生まれてはいない。

どの時代においても全体主義・権威主義に憧れる人は一定数いる。これは21世紀の情報社会でも変わらない。全体主義・権威主義に惹かれるのは、自分でものを考え、自分の足で立って歩く事が苦手な人達である。彼等は自分の力で生きる代わりに、強い権威に縋って、その「御威光」の下で生きてゆきたいと願っている。だからこそ強い権力を欲し、その下で思考停止したいのだ。だからこそ暴力的独裁を求めるし、それに憧れる。

このように自分の外側にある権威に惹き付けられる発想は、ある意味制服や肩書に憧れる人達の意識ともオーバラップする。自分にないもの・自力では手に入れられないものを、組織や権威の力を借りることで、さも自分に備わったかの如く振舞えると思っている。駅員も制服を着ているからこそホームでの喧嘩の仲裁に入ったり、痴漢を取り押さえられたりするのであり、私服ではとてもそこまでやれないだろう。

官僚が肩書きにこだわり肩書きだけで仕事をするのも、彼等秀才エリートが借り物の知識だけで武装し、自分を持っていないからこそなせるワザである。そういう意味では過剰に見栄を張る人も同類だ。シャネラーのように上から下までハイブランドで固めても、中身がなければ全く意味がないのだが、自分では何か生まれ変わったような気になってしまうのも全く同じメカニズムだ。

ガンダムのようなモビルスーツでも、中の操縦者が下手っぴだったら、とてもまともな戦闘にはならないような設定になっている。だからこそ人間が描けるのだが、こういう人は優秀なモビルスーツさえあれば誰が搭乗しても強くなれると思い込んでいるのだろう。自分を持っていないからこそ、根本的なところが他人頼りになってしまう。これではいつまで経っても自立することなど不可能である。

つまり共産主義とは、何をやってもド下手な「ダメ人間」が他力本願で数の力に頼って傷を舐め合うものなのだ。その数の力を利用して権力者は独裁的権力を握る一方、ダメ人間達はその「御威光」を借りることで何か偉くなったような気分に浸れるというもたれあいのシステムなのだ。これでは居心地がいいだけで何も生み出さない制度というのは明白だ。まあその意味では、確かに共産主義は「ダメ人間=弱者」のためのイデオロギーかもしれないが。



(23/09/15)

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