推論と地アタマ





推論の作り方は天才と秀才とで根本的に違う。秀才は現状の認識と蓄積した知識を元にステップバイステップで演繹的にロジックを作って行く。フォアキャスティング方式といえ、推論というとこのやり方を思い浮かべるのが一般的だろう。推論の組み立て方を説明しやすいし、それを学習したり応用したりすることもやりやすい。しかし既知の情報だけで結論を導き出すため、想定外の状況への対応には限界がある。

天才は、突如湧いてくる結論から、バックキャスティングでロジックを現状まで繋げて行く。ヴィジョナリーなあるべき姿を思い浮かべ、それを実現するにはどうしたらいいかを逆順で考えて推論するのだ。ミッシングリンクがあっても、途中で想定外の事態が起こっても、最初に結論があるのでストーリーが作れてしまう。ただ「結論が湧いてくる」というのは説明不可能なので、第三者を説得するのが難しい場合もある。

この「結論が先にある」というのは、実は推論を具現化する上において非常に強力である。東京から富士山の頂上に行くことが目的なら、中央線や富士急行線が事故で不通になっても、すぐに小田急・御殿場線経由に切り替えれば問題なく富士山に登れる。ひとまずどこかに行こうと中央線に乗ってしまったら、事故で不通になったところでアウトである。これがフォアキャスティング方式の弱さでもある。

このように天才の推論プロセスは一般的な推論プロセスとは異なり、いわば2次元の世界と3次元の世界のような構造的な違いがある。このため、天才からは秀才の思考経路は辿ることができるが、秀才には「ひらめき軸」がないため、天才のもっとも天才たる「最初から結論が見えている」状態が全く理解できない。そして世の中には秀才はけっこういても、天才は数えるほどしかいない。ましてや最も数が多いのは凡才である。

凡才でも秀才型のフォアキャスティングな推論であれば、自力で結論を出せるかはさておき、説明を聞いて理解し納得することはできる。世の中で行われている「説得」のほとんどが、この流れを踏襲しているのもむべなるかな。その一方で天才のひらめきは、秀才が説明を聞いてもどうしてそうなるのかチンプンカンプンなことが多い。かくして、世の中では天才の思考経路はほとんど理解されないことになる。

しかしAIが実用化した今、この「ひらめき軸」を発揮することこそ最も人間に求められている役割である。AIは学習の仕方や枝の中からの選択の仕方こそ日夜いろいろ研究されているが、膨大なファクト知識をベースに演繹的にロジックを組み立てるという構造からは、ディジタルコンピュータをベースとしている以上逃れられない。AIはいわば「超秀才」なのである。

機械にひらめきを起こさせようとすれば、ロジカルには繋がらない事象を強引に結びつけた上で展開し、それを評価してあり得ないモノを刈り込んでゆくというプロセスを、「アタり」が偶然出てくるまでそれこそ天文学的な回数行ってゆく必要があるだろう。演算やメモリーアクセス速度が今の何億倍何兆倍という技術が生まれない限り、天才にひらめかせた方がよほど速い。

将来的には現在の二進演算を基本とするコンピュータではなく、もっと他の仕組で論理の演算を行うコンピュータも出てくるだろうし、動作原理が全く違えば異質なものの偶然の掛け合わせから結論を素早く導き出せるような推論システムも作れるかもしれない。しかし、現状でそういう研究(研究をひそかにやっている学者はいると思うが)が何らかの成果を生み出したという話は聞かないし、実用化するとしても21世紀後半とか、かなり先のことになると思われる。

21世紀に入り情報社会化した現代においては、論理的でフォアキャスティングな演繹的推論においては、機械の優位がはっきりしている。しかしコンピュータの基本が現状のものの進化系である限り、ひらめきによるバックキャスティングな推論には人間の優位性が残っている。ネゲントロピーを生み出すひらめきのある人材こそ、これからの世の中を支えてゆくキーマンとなる。これは努力や勉強ではなく、生まれながらの才能なのだ。そういう人を見つけ出して大切にすることが、21世紀の人類社会を豊かなものとするカギである。



(23/09/29)

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