キャズム政治





ポストキャズム社会においては、消費はもちろん、社会生活のあらゆる面でキャズムの両側での差異が激しくなってきた。エッジな層とボリュームゾーンとは、もはや「階級差」を越えて、全く違うパラレルワールドで別の世界線の中で生きているかのごとき様相である。これがややこしいのは、かつての階級のようにその人が属する世界が決まっているのはなく、一人の人の中でで分野によってエッジになったりボリュームゾーンになったりする点である。

これにはSNSというボリュームゾーン内での横展開に最適なツールが普及したことも大きい。バズりというのは、同質の人達の間で共鳴しあって引き起こされる。かつては核分裂よろしく、実際に多数の人が集まって初めて「臨界」に達しトレンドが起こった。しかし今は、インタラクティブなコミュニケーションツールにより、物理的にはバラバラに居る人達が簡単に共鳴し合い「臨界」に達することが起きるようになった。

かつてはロジャースのイノベーター理論のように、少数の先進的な層がトレンドを生み出し、それを多数のフォロワーが追うというのがマーケットにおける流行の構造であった。リーダーがいて、それをフォロワーが模倣するというのは、ジンメルの「流行論」の頃から大衆社会の基本構造として理解されていた。事実、産業社会の時代においては、情報流通の非対称性があったがゆえに、多かれ少なかれその傾向は見られた。

社会の情報化が進み、情報流通の基本がスター型からネットワーク型に変化したことによりこの非対称性が崩れ、ボリュームゾーンにおいては、自分とは異質のリーダーを模倣するのではなく、自分と同質のバーチャルな仲間に同調することによって、離散的にトレンドが伝播してゆくようになった。あたかも固有振動数と同じ周波数の振動を外部から受けると共振を始めるようなカタチで。

これがキャズムが発生する主たる原因であり、これこそ社会の情報化がもたらした最大の変化ということが出来る。単にマーケットの問題であれば、どの商品が売れるかというだけのことであり、トレンドは買い手が集まるかどうかから生まれるという意味では何も変わっていない。一方で情報化はロングテールの活性化も生み出しているので、ボリュームゾーンにもエッジ層にもその恩恵はあるということが出来る。

マーケットの結論は常に正しく、最も売れているものが今のトレンドの中心というのはマーケティング的には間違っていない。実際ショートヘッドはボリュームゾーンが好むところに現われてくる。そして売上もショートヘッドのマーケットを狙うことで極大化が図れる(利益は必ずしもそうではないことは、ファストファッション企業とハイブランド企業の利益を比較すればすぐわかるが)。

しかし問題は社会のあらゆる面でこのキャズムが発生し、政治や文化という面でもキャズムの向こうとこっちというカタチに二分されるようになったことである。現代社会における意思決定の基本といえる「民主主義の多数決の原理」と相俟って、全体がボリュームゾーンの創発的な意思決定により左右されるようになってきた。10年代に入って、全世界的にポピュリズムの傾向が強まったのはこのためである。

10年先の1万円より、目先の10円に惹かれてしまう人の方が多いのは人間の性であり、如何ともし難い。これにより中長期視点や全体最適という意味では必ずしも最適とは言えない、目先の利益を優先する選択が基本化している。大局を捉えた戦略を提案しても人心は掌握できず、バラ撒き戦術の方がよほど支持が集まる。政策も目先のウケを狙った「超部分最適」なものとならざるを得なくなる。これを「キャズム政治」と名付けよう。

「キャズム政治の呪い」により、政治的に中長期的な将来を見据えた判断は極めて難しいものとなる。それはとりもなおさず、国といわず人類社会全体の活力を奪ってゆく。もし近い将来に人類が堕落し滅びることがあるならば、このキャズム政治が原因となるのではないか。人類の将来を鑑みて憂うべきなのか、神の手になすがままに任せるべきなのか。歴史上重要な選択が今生きている我々の上に課せられていることを知るべきだろう。



(23/10/06)

(c)2023 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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