依存性シンドローム






ここに至って、もはや誰の目にもごまかせないレベルになってしまったが、はっきりいって日本の社会はどこか病んでいる。いわば「日本病」、世界の中で浮いている。人間関係のあり方がどう考えても変なのだ。相手に期待すべきでないことまでも、相手に期待する。相手に頼るべきでないことまでも、相手に頼る。そこには相手への過剰な期待と、相手との相互依存が存在する。まさに、依存性シンドローム。これが「日本病」の正体ということができる。しかし、このような病気が発生しだしたのは、あきらかに明治以降。「お上」が強くなってからのこと。江戸時代とか、少なくとも町人社会においては、もっと自己責任が貫徹していた。自分達が自分達の枠組みの中で処理できる範囲においては、決して「お上」が口を出したりしなかった。そういう意味では近代日本特有の病状といえるだろう。

依存性シンドロームが行動原理の基本にあるのなら、よくいわれる「談合」や「利権体質」がなぜ起こるのかもすぐわかる。それらは、行動原理からすれば決して非合理的なモノではない。フォン・ノイマンのなつかしい「ゲーム理論」を使っても、そういう行動は合理的に理解可能だ。競争しても、談合しても、「得られるメリット×得られる確率」で求められる期待値は同じ。その場合どちらを取るかというだけのこと。エネルギーをかけて総取りを狙っても、エネルギーをかけずに出来レースでの分配を狙っても、得られる物が同じなら出来レースの方を取るのは当然だ。ある種のワークシェアリングではないが、公平に分配されても、自分に分配されるモノが自分にとって充分なモノであることが担保されるなら、それもある種の合理性はある。

「みんなで渡れば恐くない」。それが行き着いた先が、今の日本の物価水準だ。中身のないヒトにまで、公平に渡るようにしていれば、当然インフレになる。額面倒れ。アメリカなら年3万ドルもあれば、そこそこ健康で文化的な生活ができる。当人の趣味や嗜好にもよるが、日本の5〜600万円の年収より、ずっといい生活かもしれない。生活水準や購買力から考えて、今の日本の水準をアメリカの基準でカウントするなら、名目数字は今の半分近くでもいいということだ。しかし、その水準に為替相場を持ってゆくと、圧倒的な輸出競争力になってしまうだろう。問題なのは、日本の流通経路の複雑さでも、利権主義の許認可行政でもない。それらは単なる結果だ。それらの根源は、悪平等を指向する国民のなれ合い主義、甘え主義にあることがわかる。

では、こういう日本の現状を批判する側はどうかというと、これがまた同じ穴のムジナ。批判しているようで、実は片棒を担いでいる。55年体制へのノスタルジアは、自民党以上に社会党に強かったことをみれば、その構造はよくわかるだるお。バカの一つ覚えのように「官が悪い」というのも、ある種他人事化であり、自分の責任を無視して相手に罪をなすりつけているのと同じだ。その官や政に責任を押しつけることで、国民は自己責任を放棄している。けっきょくは同じことの裏表、共通の利益共同体になっているのだ。自分がどうすべきなのか、何をしたいのか。まずこれを語らなくては絵に描いた餅だ。自分を語らないことは、その時点で当事者能力を放棄することと等しい。

一般論としての改革は、確かに誰も反対するヒトはいないが、自分の改革から始めようとする人は少ない。ここが問題。まさに日本病なのだ。改革とは、実は天下国家を論じることではない。自分を律することである。それを積み重ねてはじめて、世の中が変わる。正義の味方が現れて、世の中を清めてくれるような、都合のいい話ではない。そういう意味では、廻りがみんな守旧派のままでも、自分だけ先にリニューアルして、利益を総取りし、一人勝ちで勝ち逃げしようという気持ちが大事だ。少なくとも経済界においては、世の中一人勝ちルールが基準となりつつある。それは、特別なことではない。そもそも自己責任ルールを貫徹していけば、そうならざるを得ないからだ。

実は、時間は余り残されていない。もはやグッドサイクルもバッドサイクルも、自己増殖をはじめるところまできている。今グッドサイクルに入っているなら問題はないが、バッドサイクルに入ってしまっているなら、まず悪循環をたちきることが必要だ。そんなことでは「最後の椅子」は、気付かないうちに誰かに取られてしまうのがオチだ。だがいまなら日本病は直せるかもしれない。もっとも、すべてのヒトが助かるわけではないが。しかし、まだかなりの人に可能性が残されていることも確かだ。動くなら今だろう。それも自分の力で、自分の問題として、手をつけられるところから確実に手をつけていく。

日本病からの脱却に成功するには、まず「甘え」をなくすることが必要だ。それが自分への甘えであれ、相手への甘えであれ、これからは一切甘えは許されない。甘える人間は、それだけで二流の存在ということ。甘えないヒトが一人でもいる以上、甘える戦略を取ることは、即、負けに通じる。頼れない。言い訳もできない。すべてを断ち切った状態に自らもってゆくこと。そしてその状態でこそ実力を発揮できる自分になること。それが未来の成功への第一歩となる。

(00/03/03)

(c)2000 FUJII Yoshihiko


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