for goodの偽善





声高に「for good」を叫ぶ人ほど、どことなく偽善の香りが漂うことが多い。そもそも自分が幸せになれない人が、他人の幸せを考えられるわけがない。そして自分が幸せな人が他人に幸せをおすそ分けする時は、基本的に「黙って」かつ「人知れず」にやるものである。それは、売名行為やスタンドプレイのためにやっていると誤解されたくないからだ。そして本当に喜ぶ人がいるならば、報酬はその人の笑顔が見られるだけで充分だからだ。

このように、本当に余裕のある人が「金持ち喧嘩せず」で、こっそりと他人の幸せを考えることはある。それだけに「他人のためにやってます」感をことさら強調する人は、どこか社会的に胡散臭い感じが漂ってくる。他人のことを慮る余裕のある人は本質的に黙ってやるのであれば、その裏返しでしつこく強調する人ほどそもそも他人のことを慮る余裕がないと考えられる。

余裕があるすなわちココロとフトコロが豊かな人は黙って利他的になり、余裕がないすなわちココロとフトコロが貧しい人は何もしないくせに世のため人のためにやっていると言いたがる。「持たざる人」の社会生活はいわば麻雀のようなゼロサムゲームをやっているようなものであり、そもそも対戦中に相手のことを考えることなどあり得ないからだ。持たざる人のクセにそれをやるのは、余程の「お人好しのアホ」だけだ。

結局、自分が幸せでないことを認めたくないがために、自分がいかに他人のことを考えて尽くしているかを強調したがる。そういう意味では「他人のため」「社会のため」を騙ってはいるのもの、その実は「自分のため」でしかない。自分の後ろめたい部分を隠蔽するための免罪符となっている。そういう意味ではウソとダブスタで塗り固めたリベラルや左翼の人達が、「for good」を装いたがるのも納得できる。

個人の意識や行動だけではなく、日本においては「CSR」や「SDG's」といった組織における社会貢献に対してもほとんど同じ発想が見られる。バブル期の「メセナ活動」以来、日本では企業社会活動とは企業性悪論に対する贖罪と免罪符になってしまっている。しかし、それは根本的に違う。企業や組織の社会貢献とは本業がどれだけ人類に貢献し、人々の未来に幸せを作っているかということが問われているのだ。

儲けを、慈善事業でどれだけ使ったかを競う話ではない。それは、あからさまな偽善である。それは幸せでない人が、人に幸せを与えられるかということに行きつく。結局、人徳のない秀才エリートが年功序列でトップに立った「サラリーマン社長」の企業では、トップまで「幸せでない持たざる人」になってしまっているからこそ、企業や組織の体質そのものがそうなってしまうからだ。

実は企業が「社会的良き隣人」ではなく「短期的な利益の亡者」になり、企業性悪論を生み出してしまうのも、こういう「幸せでない持たざる人」に牛耳られる組織になってしまっているからだ。オーナー企業であれば(オーナーがとち狂わない限り)、企業の社会的責任はオーナーの社会的責任であり逃げることは出来ない。さらに自分の代で万世一系を続けていけなくなったら先祖に会わす顔がないので長期的な視野が必須になる。

振り返ってみると、江戸時代の豪商の商人道には、「三方一両得」のような、自分だけでなく、顧客も仕入れ先もみんなハッピーになってはじめて商売が成り立つという倫理があった。短期的な視点ではなく、長期的視点からみんなのメリットが続いてこそビジネスは成功するという考え方だ。ゼロサム社会に近かった江戸時代においては、これが継続的にビジネスが続くための絶対条件だった。

この考え方こそ、今でいうサステナビリティー・CSRの原点である。しかし明治以降になって、文明開化の「追い付き、追い越せ」のために短期目標・短期視点しか追わなくなるとともに、その実現のために秀才エリートを重用したところから、良き伝統は失われてしまった。その結果高度経済成長は実現したものの、追うものがなくなってしまうと目標がなくなり失速してしまった。

思えば明治時代も19世紀においては「和魂洋才」といわれ、江戸時代からの良き精神的伝統は守ろうという精神があったことは間違いない。当時は地方の篤志家のように、まさに社会的責任を果した実業家も多かった。そういう意味では、この気風をよみがえらせれば日本の復活も決して不可能なことではない。for goodなどどあえて叫ぶな。黙って密かに社会を支える。これこそ日本のココロとフトコロが豊かな人の伝統なのだ。



(23/10/20)

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