生き残りのカギ





21世紀は200年以上に渡って続いてきた産業社会が情報社会に構造変化する変動の世紀である。事実、20世紀までの常識や定説では理解不能な変化が続々と起こっている。このような激変の時代の中で「生き残る」といった時に、あなたはまず何が生き残ることを考えるだろうか。会社のような自分が所属する組織だろうか。日本というような国家だろうか。それとも自分や自分の大切な人といった個人だろうか。

国が生き残れるか、組織が生き残れるかということを重視する考え方の裏には、「寄らば大樹の陰」の発想が潜んでいる。自分の中にアイデンティティーがないため「自分の足」で立つことができず、常に何に縋って自分の居場所を作るかから考えることしかできない。だからこそ、自分がどうするかより先に、自分の身の寄せ先としての組織や国家がこのままずっと続いてくれることを第一に願うことになる。

そもそも近代国家とは、国民国家という思想は産業社会よりは長い歴史を持つものの、市民革命によって権力の社会契約説が生まれて以降の産物であり、近世いらいのせいぜい400年程度の歴史しかない。出資者の有限責任に基づく近代企業にいたっては、産業革命の成果として経済の拡大・生産の拡大が起こった19世紀半ば以降に、より大きな規模での経済活動を行うために生まれたものである。

近代国家も近代企業や組織も、産業社会とどっこいどっこいの歴史しか持っていない。というより、それらは全て近世以降の市民社会・大衆社会の興隆と、それとクルマの両輪とも言える経済成長の過程から出来上がってきたものだ。しかし何か大きな組織や権力にすがることで集団の中に埋没して生き残れるというのは、「頭数」の多さがモノを言った時代のやり方の名残だ。そしてこちらはけっこう歴史がある。

というのも、長い間人類を人類たらしめてきたアイデンティティーこそ、労働集約的な協業にあるからだ。言語を持ち形式知を共有することで、集団としての力を発揮できる。これこそ人類をそれ以外の動物と大きく分ける要因となった。原始時代に農耕が始まるとともに集団の力が必要となったため、それまでの動物的な「群」を脱して集落や部族が生まれ、「数が多いことは力」という新しい局面が始まったのだ。

以来一万年に渡り、人類は労働集約的な人海戦術でいろいろなことを成し遂げてきた。エジプトのピラミッドや秦の始皇帝の兵馬傭、大仙陵古墳など莫大な人手を掛けて建築された古代の遺跡が、その頃から「数の力」が決定的な権力の源になっていたことを今に伝えている。段々と技術が進み、機械が発明されることにより、単に手足の力だけでなく、その何千倍・何万倍というパワーをコントロールできるようになり、文明は発展した。

産業革命以降の産業社会においても、この掟は一気通貫していた。生産現場の機械化が進むと共に、生産過程においては直接人間の手作業による部分はどんどん減っていったが、生産量が増す分、工場の運営管理に必要な人材は増えるし、原料の調達や製品の販売といった前後のバリューチェーンの負担も増えてその人材も必要になる。さらには企業組織の運営に関わる人材も必要になる。産業社会においては経済の発展と共に、全体としての労働集約性は常に高まっていった。

そしてついに情報社会の到来である。機械システムが、コンピュータシステムが、全てをやってくれる。ここでは機械システムやコンピュータシステムをどう使いこなして全体最適を図るかという「質」の問題こそ重要だが、「量」は問題にならない。「質」良く「量」を制する時代の到来である。人類史上初めて「数は力なり」が崩れる時がやってきたのだ。この大きなパラダイムシフトが目前に迫っていることこそ、今最も自覚すべきことである。

「数」が力の源泉でなくなった以上、国家や組織のあり方も大きく変わる。量だけあってもしかたないのであれば、「はじめに国家ありき」「はじめに組織ありき」は成り立たない。何よりもはじめに「自分がどうやって生き残るか」しか、生き残りのスキームはない。もちろん、自立できた人間が集団の力を発揮するために組織を作ることはあるだろう。しかしそれは産業社会的な組織とは全く違うものである。まずこの「理」を理解することが、21世紀的な生き残りの鍵なのだ。。



(23/10/27)

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