金と権力





自己実現とは、自分の外側にロールモデルがあってそれに追いつこうとする行為ではない。それが潜在的であろうと顕在的であろうと、自分の心の中にある「なりたい自分」を現実世界の中でカタチにしてゆくことである。そもそもこういう構造になっているからこそ、自分を持っていない人間は自己実現が出来ない。しようにもそもそも自己のアイデンティティーがないのだから、0に何を掛けても0になってしまうのと同じこと。

別に自分を持っていなくても、自己実現ができなくても、人間として生きてゆく上ではなんら問題はない。そもそも「ヴィジョンとしての自分」がないのだから、何かを達成できなかったからと言って落胆することもない。まあその分、世の中の大多数を占めるの凡才ならば、ほとんどの場合「宵越しの金は持たない」でその場の享楽に溺れることで紛らわす。これが昭和の頃のオッサンの「飲む・打つ・買う」である。

しかし自分を持っていない人達の中には、記憶力や論述力だけは秀でている人もたまにはいる。これが秀才である。秀才は自分を持っていないものの、その学力の高さを活かしてロールモデルを真似ることだけは非常に上手い。従って、「いい学校を出て、会社や官庁などいい組織に入って出世する」という、秀才の先輩たちの足跡を丁寧にたどる人生を送ってゆくことを目的に頑張るのだ。

思い起こせば昭和の高偏差値大学では、地頭だけで都会の中高一貫進学校から入ってきたおぼっちゃまタイプと、努力の受験勉強だけで地方の公立高校から入ってきたガリ勉タイプと二種類の学生がいた。この両者はいわば水と油で、キャンパスライフでもほとんど接点がなく、単に同じ授業に出ている時に顔を合わせるだけの関係であった。昭和40年代初期においては後者のタイプの方が大学生の典型だったものが、昭和50年代になると前者のタイプの方が典型となった。

前者の学生のライフスタイルは、付属から上がってきた有名私大の学生に近いし、実際慶応や立教といった高偏差値の私大はその頂点であり巣窟であった。国公立大学学生であってもファッショナブルな恰好をしてマイカーを持っていたりするし、サークル活動も積極的だった。高偏差値大学も、その後の人生にプラスになるだろうから受験したのであって、あくまでも人生の「手段」であった。つまり、自分でやりたいことがあるし、実現したい自分らしさをそれなりに持っていた。

しかし後者の学生は、自分でやりたいこととか実現したい自分らしさをいうものを持っておらず、「勉強していい点を取ること」にしか自分のアイデンティティーを持てない人達だった。自己実現のための趣味もなく、いわばひたすら勉強していい点を取ることが喜びであり趣味になっている。すなわち自分が勉強ができることにしかアイデンティティーが持てず、高偏差値大学の学生であること自体が目的化してしまっていた。

高度成長期以前はいざ知らず、筆者が実感として知っている1970年代後半以降だと、高級官僚を目指すものは後者のタイプにしかいなくなっていた。それは高度成長の結果として、かつての傾斜配分方式のような官主導でなくとも自律的な社会・経済の発展・成長が可能になったため、前者のタイプの自己実現の手段として高級官僚というキャリアを選ぶ意味がなくなってしまったことによる。

その一方で、大学入試の後は難易度の高い試験を受けたくてもその機会が少ない中、上級公務員試験というのはガリ勉君がチャレンジする目標としては充分に魅力的だったからだ。文明開化以降「追いつき追い越せ」がモットーだった日本では、列強の先進的な技術や制度をハイスピードで取り入れるべく、人間AIたる秀才を重用した。そのための採用試験制度がこの時代で色濃く残っていたのが高級官僚の採用だったからだ。

彼等は勉強は出来るが、そもそも多くの凡才と同じように自分というもののアイデンティティーを単独で持つことが出来ない。従って組織内でしかるべきポジションに就いたとしても、自己実現としての夢の実現ができない。企業のトップマネジメントは夢としてのあるべきヴィジョンを明確に持ち、それをリーダーシップを持って実現しなくては経営者としての責任を果たせない。

右肩上がりの高度成長期ならば、それでもなんとか任期を全うできたかもしれない。しかし激動の時代には、こういう秀才が企業に入り年功序列でトップまで上り詰めたサラリーマン社長では、危機に対応した舵取りは不可能だ。かくして日本の大手メーカーは次々と息の根を止めることになった。企業では通用しなくなりつつあったが、官僚にはそういう外部チェックが働かないので、21世紀を迎えるまで秀才の巣窟となってきた。

ヴィジョンを持っていない彼等が目指すところは、テストの点数のように手っ取り早く定量的評価が得られる「金か権力か」ということになる。金はまさに数字そのもので比較・評価がしやすいし、権力も順位のランキングにできるので選抜試験の結果のように数値化しやすい。よって「試験の点を取ること」が目的になったように、金と権力で相手に勝利することが人生の目的化してしまうのだ。

いかんせん、彼等は自分の目的がないので、金を得て何かをやる、権力を得て何かをやる、といった「何か」がなく、「金の大きさ」「権力の偉さ」そのものを競うことが目的となってしまう。財務省の官僚が税収増自体を目的化して増税に邁進するのもむべなるかな。まあ、こういう秀才は民間にもまだまだ多く居残っている。しかし同じことを一桁低いコストで実現できるAIの時代である。熟柿は敢えて取らなくとも腐って落ちる。もうその時は近いのだ。



(23/11/03)

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