強く生きられる人





世の中には強く生きられる人と弱くしか生きられない人がいる。これは決して巷間で言われている「強者・弱者」ということではない。強者・弱者というのは、軍隊の階級のような権力の非対称構造により生じる関係性である。このような関係性はスタティックなものだ。それに対し強く生きられるかどうかというのは、一人の人間の中で起こる社会との間のダイナミックな作用の問題である。

強く生きられる人かどうか。それは生まれながらの才能である。人は得てして自分の身の腑甲斐なさを、育った環境や受けた教育のせいにしがちである。特に弱くしか生きられない人ほど、その傾向が強い。家がもっと豊かだったら、良い学校を出られれば、とタラレバで自分の身を嘆くのだ。もっとも強く生きられる人なら、そもそもコンプレックスがないので、そういう発想をする必要もないのだが。

これが真実であることは、嫌かもしれないが強く生きられる人のメンタリティーがどこから来たものなのかを客観的に分析してみればよくわかる。「強く生きられる人」の中には、恵まれた環境で育った人もいれば、かなり不幸で厳しい環境の中で育った人もいる。強いメンタリティーがあれば、たとえ毒親の元で育てられても、それを反面教師として自分が成長するためのバネとして活かすことができる。

一方非常に恵まれた環境と理解のある親の元で育てられても、自立できず自分を持つことができない「バカ息子」になってしまう例も数多い。確かにスラムで育ってギャングになってしまう輩も多いが、そういうところで育ってもキチンとした立派な人間になる人も立志伝で語られるようにちゃんと存在する。これだけでも、強く生きられるメンタリティーと環境や教育といった後天的な要素とは相関が低いことが充分に察せられる。

強く生きられる人は、どんな厳しい環境で育ってもそれを肯定的に受け入れて強く生きる人間になってしまう。強く生きられない人は、逆にどんなに恵まれた教育を受けても、どんどん甘える方に走り、結果的に弱い人間になってしまう。ここでもやはり「自立・自己責任」で行動できるメンタリティーか、「甘え・無責任」でしか行動できないメンタリティーかということが、最大の岐路になっている。

「自分の責任」を感じられない人は、強く生きられない。だからこそ、強く生きられる力を持っていない人ほど、現状の自分が生み出された原因を自分の外側に求め、そもそもの真因である自分の能力の足らなさを認めたがらない傾向が強い。このため、運やチャンス、機会や教育に恵まれなかったから自分が弱者になったのだと主張したがる。これは結局、現実からの逃避でしかない。

強く生きられる力を持っている人がどういうライフパスを経てきたかを見てみれば、そういう後天的な環境の影響がほとんどないことは理解できるはずだが、そういう自分に都合の悪い事実には目をつぶる。なんか左翼・リベラルの行動様式とうり二つだが、そもそも左翼・リベラルの人達は「甘え・無責任」なタイプがほとんどなので、むべなるかなである。要は負け惜しみなのだ。

そもそも強く生きるためには、自力で生きていけることが必要である。というより、自分の足で立って、自分の意思に従って行動できることが「強く生きる」ことなのだ。だからこそ自分を持っていないがゆえに自分の足で立つことができず、何かにつけて他人を頼ろうとする人達は、自分の責任という考え方がない分、あらゆる問題を周りの環境のせいにしたがる。そういう意味では、全てはまさに自分のあり方次第なのだ。



(23/11/17)

(c)2023 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる